““たった一つの輝きを あんたが失くしたとしよう 
 でもね コトコト歩き出すがよい 
 コトコト コトコト いい音だな
 何もなくなりゃしないのさ 形が変わっていくだけさ
 ワインライダー・フォーエバー““

'98年に、大槻ケンヂ氏のソロプロジェクトで発表された「ワインライダー・フォーエバー」の一節です。その後、筋肉少女帯のアルバムにも入った曲ですが、まぁテレビやラジオで聴くことはほぼないですし、知ってる方は少ないでしょう。

この曲で大槻ケンヂ氏が書いたのは、喪失の大きな悲しみも、ちょっと角度を変えるとコミカルだよね、時が経てば笑えてしまうよねってことかなと、僕は勝手に解釈してます。
(そもそも、映画シザーハンズに引っ掛けた内容の詞で、成り立ちからして、かなり面白いです。)

僕は、発表当時から、

「何もなくなりゃしないのさ 形が変わっていくだけさ」

の一節がすごく気に入っていて、なにかに付けて頭の中で繰り返して唱えていました。

2001年に、僕は人間関係の喪失でかなり落ち込み、鬱になったのですが、その時も、

「何もなくなりゃしないのさ 形が変わっていくだけさ」

と唱え、コトコト歩いていればそのうちにと自分を慰めました。その後、2003年に妻と知り合って、それからは、この気に入りの一節もあまり思い出さなくなりました。まぁつまり、満たされていたわけですね。

そうして、その妻が先日、亡くなってしまいました。

「何もなくなりゃしないのさ 形が変わっていくだけさ」

落ち込んだり、あれこれ思い直したりして、最近またこの一節をよく思い出すのですが、無理だな、今回ばかりはと思います。

何故、僕にとって一番の人がいなくなってしまったんだろう。

職場で嫌な人と接したとき、何故ALSで亡くなるのが、この人じゃなくて妻だったんだろうと思います。そうして職場の中を見回して、あの人でも、あの人でも、誰でもいいよ、妻でさえなければ、本当に誰でもいいんだと思います。でも現実に亡くなったのは、他ならぬ妻なのです。

酷いこと考えてますね。
でも何故、よりによって妻なんでしょう?

妻の遺品を少しは片付けようかと思うことがありますが、なかなかできません。服も靴も鞄も、なかなか捨てることができません。

でも、服や靴や鞄なんか全部捨ててなくなってもいい、新婚旅行で買った想い出のヴィトンのバッグだって捨てていい、妻本人がいてくれれば、本当に他の何を捨ててもいいのに。でも、現実に亡くなったのは、妻なのです。

一番大事な妻が亡くなったのに、どうでもいい遺品を保管して、何になるんでしょう?

やがて形が変わっていくのでしょうか。
前の記事に、再婚云々と書きましたが、そんなことあるわけないんです。ないってわかってます。

「何もなくなりゃしないのさ 形が変わっていくだけさ」

今度ばかりは無理なのかな。
それとも、変わって行ってくれるのかな。
何だか今夜は眠れません。