一昨日、妻の告別式と火葬を終えた。
泣けてきたり、持ち直したり、気持ちの振れ幅があり過ぎて、当日のことは正直、よく覚えていない。なんとなく残っている感情は2つだ。
ひとつは、出棺の際に、棺を花やぬいぐるみで満たしながら、幾度となく妻の頬に触れ、その時だけ、少しほっこりした気持ちになれたこと。
もうひとつは、火葬されるのが嫌で嫌で仕方なかったこと。
よく晴れた空の下、霊柩車の助手席に乗って、妻の棺とともに火葬場に向かう、何と呼んでいいのか分からない複雑な気持ち。
こんなに良いお天気の日に
お別れしてゆくのかと思ふとほんとに辛い
長い詩のうちのこの一節しか知らない、中原中也の「別離」を思ったりした。
待合室で火葬を待つ間、大仕事だった葬儀がほぼ終わった安堵感と、放送チャイムが鳴って呼び出されれば、変わり果てた妻の姿を目の当たりにしなければならないと思う緊張感と、両方に揺れる妙な気持ち。
覚えているのは、そのくらいだ。
昨日は、役所に手続きに行ったあと、菓子折りを持って、一番お世話になった訪問看護ステーションと訪問医のところに挨拶に行った。
菓子折りを買ったあとに、義母と娘と3人で、サーティワンアイスクリームを食べた。
さらに、挨拶が終わった後、3人でスターバックスに寄った。
これまで、妻の介護のためにのんびり寄り道することは全く出来なかったが、これからはできる。
久しぶりのアイスクリームとコーヒーは、染み行った気がしたが、この余裕が、自分の求めていたものだったのか、それとももっと別のものを求めていたのか、良く分からない。
故人の写真に向かって話し掛けるシーンは、ドラマなどでよくあるが、実際にそんな事をするのかなと思っていた。驚いたことに、ついそれをしたくなってしまうのだが、愛情の深さ云々でなく、そうでもしていないと空虚感が埋まらないからのようだ。つまり、自分が落ち着くためだ。
つい、遺影を見に行ってしまう。色々な感情が入り交じるので、それを言葉にまとめられない。
一直線に落ち込んだり塞ぎこんだりするのでなく、様々な感情のブレンドで落ち着かない。そんな感じだ。
この起伏が収まって落ち着くのは、少し先になる気がする。