葬儀会館の控室で、妻の遺体とともに寝ている。

昨日は、ほとんど眠れなかったので、今日はさすがに眠れるだろうと思ったのだが、やはり目が冴えてしまった。しばらくウトウトしていたのに、今、隣にいる妻の遺体が明日にはなくなると思うと心が乱れて仕方がない。

妻との意思疎通が難しくなり、介護生活が厳しくなってからも、しばしば僕は妻に触れて、寂しさを紛らせていたように思う。

妻が健康だった頃の想い出が湧き上がる度、寂しさが募った。そんなとき僕は、妻の頭をなでたり、抱きしめてみたり、あれこれと妻に触れては寂しさを紛らせていた。

身体に触れれば妻は、何らかの反応をしてくれる。スキンシップと言えば聞こえがいいが、妻の存在を確認するため、あるいはもっとストレートに言ってしまえば、ぬいぐるみを抱くと少し気持ちがやわらぐように、そんな思いに近い雰囲気で妻に触れていたように思う。

そのことに気付いたのは、今月13 日から10日間、妻をショートステイに入れたときだ。触れたいと思ったときに妻がいない寂しさに初めて気付いた。

昨日は、遺体となった妻の頬に何度も何度も触れていた。しかし今日は、午後2時から湯灌をして、素晴らしく綺麗に化粧をしてから妻の身体は棺に収められてしまい、それ以降、触れることができなくなった。

触れられない。さらに明日にはなくなってしまう。僕は明日以降、それに耐えられるのだろうか。

ところで昨日、妻が亡くなったことを知ったとき、僕は特に泣かなかった。予想していたこともあり、涙は出なかったのだ。ところが、今日、午後2時から湯灌をして化粧を整える間に、僕は何度となく泣いた。

病院で苦しんだとき以来、乱れていた髪が、洗われ、乾かされ、生前のように整えられたのを見て泣いた。生きていたときの妻の面影に近づいたからだ。

化粧をしたときにも、また泣いた。ここ数カ月、僕が妻の化粧をしていたが、やはりあまり上手でなかった。

スタッフに、妻の数年前の写真を見せて、それに似せて眉を描いてもらったところ、見事に再現され、俄然昔の面影に近づいた。それを見ていたら、ボロボロと泣けた。

僕は一体、どのポイントで寂しがったり泣いたりしているのだろう。キモイと自分でも思う。

明日には、妻の遺体がなくなってしまう。

江戸川乱歩に「蟲」という短編がある。女性への偏執的な愛のあまり、死体となった女性を永遠に保有しようとして防腐処理を施し、しかしそれでもどんどん腐敗が進んでいくために、主人公が常軌を逸していく話だ。

いや、さすがにそこまでの思いはないのだけれど、ちょっとそれを思い出してしまった。キモイ記事を書いてる間に、少し眠くなってきた。眠れるだろうか。