妻をショートステイにあずけて3日が過ぎた。

生活は、圧倒的に楽になったが、自分でも意外なほど、心がワサワサ、モヤモヤして落ち着かない。胸のあたりにずっと変な感覚がある感じだ。

最初は、妻が施設に馴染めているか、心配なせいだと思った。確かにそれもあるのだが、施設の担当者の方の話では、大きな問題もなく過ごしているとのことだ。

昼間は椅子に座り、家から持って行ったハードディスクレコーダーのアニメを足でリモコン操作しながら眺めているらしい。まずまず、いつもどおりの生活だ。

コロナ禍で面会は一切禁止されており、様子を見に行くことはできないが、嫌がって泣き叫んでいるわけでもなく、意外に順応してくれているのかも知れない。

しかしそれでも、胸のモヤモヤが取れない。妻を施設にあずけた罪悪感のようなものでもないと思う。このモヤモヤの正体は何だろうと考えてみたところ、大体次のような感じと思えてきた。

① 妻がそばにいれば、姿を見て、触れて、話し掛けて、介護をして、あれこれやり取りすることで、それ以上深く考えずに時間が過ぎていく。

② ところが妻がそばにいないと、見たり、触れたり出来ないので、つい頭の中でどうしているか想像してしまう。

③ 現在の妻を想像しているつもりが、いつの間にか過去の想い出にひたり始める。とめどなく想い出が浮かんで、止まらなくなる。

④ 施設にあずけて楽をしたかったわけじゃない。僕の本当の希望は、昔の妻を取り戻したかったことだ。ショートステイにあずけて楽になっても嬉しくない。そんなことを求めているんじゃない、ああ昔の妻に会いたい → 自滅

こういうループだ。④まで行ってしまうのは1日の中で時々のことだが、常に②、③の気持ちにモヤモヤと取り憑かれてしまっている感じだ。妻の存在を感じられれば、①のところで気持ちが止まるように思うのだが。離れて過ごしてみて、自分の気持ちがどう動くかを実感し、なかなか難しいものだなと思った。

さらに、こういうことを書くと人非人と思われるかも知れないが、実は僕は、妻が仮に逝ってしまったとしても、何とか耐えられると思っていた。

妻が言葉を話せなくなってから、意思疎通は相当制限されており、特に最近の半年は、細かなコミュニケーションはほぼ取れなくなってしまっている。つまり、妻との関わりは、既にかなりの部分、失われてしまっているのだ。だから、仮に妻が亡くなる日が来たとしても、急転直下の喪失をするわけではない。元気な妻が事故で突然亡くなったら耐えられないように思うが、徐々に失っていくこの病気では、別れのショックは緩和されるように思っていた。

しかしどうもそんな単純なものでもなさそうだ。もし妻と離別したら、前日までの病に伏せった妻の姿を思うのでなく、想い出の中の元気だった妻を思うのだろう。結局、別れのショックは緩まないのかも知れない。

介護で忙殺されているうちは、目の前の妻しか見ていないが、少し余裕ができると、楽しかった昔を思い出す。なんとも厄介な心の動きだ。

一方、ママと離れた娘の方はどうかというと、

「寂しくないよ、むしろ楽しい」
「久しぶりに気が緩んだ」

などと言っている。

土曜日にLEGOLANDに出掛け、日曜日は、娘と二人だけでのんびり過ごした。娘の言うがままに、朝はマクドナルド、昼は宅配ピザ、夜はガストで食事をした。

LEGOLANDで買ってきた、驚く程高いレゴのキットを組み立て、ニンテンドースイッチのゲームを二人でした。娘はそれを「楽しい」と言ってくれた。


しかしちょっと引っ掛かっているのは、日曜の夕刻、ガストで食事をして車に乗って帰ろうとしたときの会話だ。

娘が言った。

「悩み事があるの。ゲームしたいのか、寝たいのか、自分で分からないの」

ドキリとした。

「それは何となく気持ちが落ち込んで、ゲームしても、寝ても気持ちが晴れないってことじゃないの?」

「そういうのとは違うと思う」

そこで会話は終わったのだが。

離れて過ごすと色々なことを思う。楽ばかりではないようだ。