月曜の夕方、訪問医の診察を受けたとき、

「気管切開はどうされますか」
 
とあらためてストレートに尋ねられた。妻は即座に首を振って否定し、僕も望まないと答えた。

理由を問われたので、何度も頭の中で繰り返したことを話した。

「現状でもほとんどコミュニケーションが取れておらず、遠くない未来に、さらに意思疎通が難しくなると思います。意思の表出ができないまま、人工呼吸器を装着させ、生きつづけさせるような選択はとてもできません。」

妻は前頭側頭型認知症のため集中力がなく、文字盤から文字を探すことも出来ないし、コミュニケーション手段を新たに覚えることも到底できない状態だ。

すると先生は、

「立ち入ったことを伺って失礼ですが、それはご主人の意思ですか?ご本人さんを思ってのことですか?」

と尋ねられた。これも、何度も頭の中で繰り返したことを話した。

「自分の意思です。恥ずかしいですが、日々の介護と未来への不安から解放されたい気持ちが第一です。現状から考えると、TLSに近い状態になることが十分あると思えますし、延命することでその恐れが増すと思います。本人の苦痛を思う気持ちももちろんありますが、それより苦しむ妻を見ていることに耐えられない自分の気持ちが大きいと思います。妻を思ってでなく、自分が楽になりたいというエゴが働いているのが正確なところだと思います。」

大体このくらいのことを話したが、先生は何故か、さらに次の言葉を待っているようだった。妻本人を目の前にして、ここまで話したのだから、もう十分だろうと思ったが、先生が訊かれるなら仕方ないと、言葉を続けた。

「娘のこともあります。違っているかも知れませんが、精神が完成する年齢より早い段階で母親と死別した方が、やや傷が浅く、回復しやすいのではないかと思います。これも本当に娘を思ってのことなのか、娘をなぐさめる自分の苦労を思って、自分本位に考えてのことなのか、判然としません。」

本音の全てなので、もう話すことは、本当にないと思った。

話がそれるが、他人の気持ちを優先し、自分の気持ちを抑えるという選択は、なかなかできるものではないと僕は思っている。というか、この1〜2年であらためてそう思うようになった。

もちろんこんな僕でも、自分の気持ちを一時抑えて、相手の気持ちを満たしてあげたいと思うことはある。例えば電車でお年寄りに席を譲ることだってある。しかしそれは「一時的」だからできるのであって、10年単位で自分の気持ちを抑えられるのかと問われると、途端に気持ちが揺らいでしまう。

それをできる人もいると思うし、できない自分は恥入るべきだと思うが、一方で僕と同じような人も少なくないと思う。

飛躍した話しかもしれないが、もし、他人のために10年単位の時間を献身に費せる人が多勢であったなら、婚活が上手く行かずに悩む人は今よりもっと少ないのではないか。簡単に言えば、長く終わりの見えない期間、我慢を続けるのは難しく、自信が持てないので、多くの人はそれを本能的に避けようとするのだと僕は思う。

妻の場合に、せめてコミュニケーションが取れていれば、他のことを我慢してでも一緒に過ごしたいと考えたように思うが、現状とてもそれは無理なように思える。

それた話を戻す。

幸い、娘は自室でゲームをしていて話を聞いていなかったが、妻と先生を前にして、僕はかなり開け透けに気持ちを話したつもりだった。

すると先生がこう言った。

「例えば、ご主人と奥様が別々の道を歩んで、ご主人の知らないところで、奥様が生きているという状態はいかがですか。奥様は今もアニメを観て、傍目には楽しそうにも見えます。そういう生き方もあるのではありませんか。」

僕はこの時、先生の言われる意味があまりピンと来なかった。

「妻が生きているのに会わないで別々に過ごすという状況は考えられません。それはどういうことですか?」

「つまりお二人と娘さんの三人家族の生活に一旦ピリオドを打つという選択です」

このあたりの話を聞いて、妻がにわかに泣き出した。

「それはあり得ませんね、離れるという選択はないです。検討の余地もないと思います。気管切開の選択について、責任を負わなくてもいいように離別して、本人に任せるということですか?」

「いえ、責任云々ではありません。」

「うーん、あまりピンと来ませんね。今のところの考えは、さっき話した通りですね。」

「そうですか」

大体そのくらいで会話は終わった。その後も先生の言われた意図を考えていたが、ピンと来なかった。しかしその夜、短い睡眠を取って目覚めたとき、ふと腑に落ちたような気がした。

おそらくだが、先生の言われた意図は、次のようなことではなかろうか。

気管切開を行うか否かの判断は、

・あくまで最後は本人の問題なのだから、家族の意思でなく本人の意思で判断すべき
・その本人の判断が、家族のために我慢することでねじ曲げられならないようにすべき
・できれば家族が誰もいない状態にして、気兼ねなく判断させてあげるべき

先生が、僕の意思か本人の意思かと、突き詰めて尋ねられたのはそのあたりが理由のように思えた。

また、これは邪推だが、先生には離婚経験があるそうで、判断の上で別々の道を歩むことへの経験的な実感があるようにも思えた。

さっきも書いたとおり、僕自身、他人のために長期間に亘って自分の気持ちを我慢することは難しいと思っている。他人への配慮で気持ちがねじ曲がらないようにすべきという意見には賛成する部分もある。

しかし、何というかどうしても理解できないところがあって、お互い生きていながら関わりを持たないという部分が、考える余地もなく想像できないのだ。

先生のご意見は、少し分かったような気がしたが、それはないなと思った。

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快い記事でなかったことをお詫びします。