話題の2つの番組、
 
◯ NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」
◯ ザ・ノンフィクション「それでも私は生きてゆく」
 
を観た。
 
前者は、多系統萎縮症の方がスイスで安楽死を選ぶ内容。後者は、ALSの方を数年に亘って追い、病気の進行の様子までをもとらえた内容だった。
 
どちらも本当に貴重な記録だと思う。取材に協力されたご本人とお身内の方のご意思、番組製作の方々のご苦労には敬意を表するしかない。

自分もALS患者の家族として、考えさせれられることが多かったので、少し書き留めておきたいと思う。
 
◯「彼女は安楽死を選んだ」
 
「安楽死」を得ることは簡単でないと、あらためて思い知らされた。
 
安楽死団体へ入会して、その時が巡ってくるまで待機し、渡航、宿泊して施術に臨む。その間の英語によるメールや会話のやりとり。親族と話し合って合意を得ること、そして持ち帰ることができない遺灰をスイスの川に流すこと…
 
金銭的な負担だけでなく乗り越えるべきハードルがとても多い。余程確固とした意思を持っていなければ、成し得ないだろうと思えた。例えば親族が協力しないと言ってしまえばそれまでだ。
 
スイッチひとつで、思い立ったときに安楽死を選べるのなら本当に「安楽」と言えるかもしれないが、実際にはそうではない。いつでも安楽死を選べる容易さとは程遠く、渡航の手間や様々な手続きによって自由は制限されている。もちろん、人の死が容易であってはならないので、考えてみれば当たり前ではあるのだが。

現行制度の中で自ら死を選ぶことは極めて難しい。おそらく、他の人がミナさんと同じ選択をするのは容易ではないだろう。

ミナさんは、
「人間なんていつ死んでも今じゃない気がするの」
と言われていたが、もし国内で叶うのなら、もう少し自由に「いつ」を選べたのではないかと思った。


◯「それでも私は生きてゆく」
数年に亘る長期取材をまとめた番組と知らずに観始めたため、終盤にかけて、美怜さんの症状が進行していくのをみて本当に胸が詰まった。

ALS患者が気管切開を選ぶとき、答えを出し難い1つの原因は、ALSが進行性の病であるからだと思う。

施術後に症状が進行しても、同じ気持ちを保っていられるか。おそらく誰にも分からないし、自信を持てる人などいないだろう。

日常生活でも、一度下した判断について気持ちが変わることは珍しくない。状態が変われば気持ちは変わるものだと思う。

しかしこの病では、気管切開を選んだあと、心変わりすることが許されない。いわゆるTLS、眼球運動を含むすべての随意運動が麻痺して周囲とコミュニケーションが取れなくなった閉じ込め状態に及んでも、気管から呼吸器を外せば、外した人が罪に問われてしまう。

ALSは、精神を閉じ込める病と言われるが、もしかすると閉じ込めているのは病だけではないのかも知れない。

法制度と社会が患者の自由を著しく制限して逃げ場を奪っていて、閉じ込めに加担しているのではないか。

気管切開をした後に、安楽死を選べる選択肢がもしあったなら、実際に死を選ぶか否かは別として、やや閉塞感は薄らぐように思う。出口のない状態の中で、それは1つの出口に成り得るように思う。

今回、2つの番組を観て、ミナさん、美怜さんのお二人が強く生きていながら、一方で病以外の何かに自由を制限されているような閉塞感を感じた。

多くのALS患者は、計り知れない不安の中で気管切開の決断をしている。病状が閉じ込めを強いてくるなら、法と社会は、閉塞感を少しでも和らげる手助けとなって欲しい。

特に法制度の整備は、人智によって成しうるものではないか。簡単とは思わないが、治療法の確立よりも、介護問題の解決よりも、短い時間で叶えられることのように思う。それによって気管切開を受け入れる勇気も普及するのではないか。

日本がその分野の先進国となって規範を示して欲しい。尊厳の手前の、閉じ込めを緩めるためにも切に願う。