日曜日から今日まで5日連続で、妻の胃ろうに栄養注入をした。5日とも夕食後に、娘の目の前で行った。

娘は、特に2日目は、準備から終わりまでじっくり眺めていた。

シリンジやチューブを浸した消毒液のミルトンに興味をもって触ろうとしたり、


薬を溶かして入れた小鉢と、半固形剤を入れたドンブリを見比べて、リラックマのドンブリだ!と喜んでみたりした。



また、こうして薬と栄養を入れるんだよと説明すると感心したように、
 
「ママ、声出にくいもんね」
 
と応えた。

残念ながら、これらの薬や栄養で、すぐに声が治るわけではないが、そうは言えず、うん、ほらママあんまりたくさん食べられないからこうして栄養を入れるんだよと補足した。

夜、娘と添い寝するときに、どう感じたか幾度か尋ねてみた。

「怖くなかった?」ときくと、

「怖くないよ、ママのためだもん!」

と応えた。100点の回答だ。

その後も気になって、怖くなかったかを二、三度聞いたのだが、何度聞いても胃ろうよりラジカット点滴の方が怖いのだそうだ。

点滴は、まず針刺しが痛そうだし、点滴している間もずっと痛そうに見えるらしい。

それに比べて胃ろうで、お腹に栄養を入れるのは、

「入れ終わると『んー気持ちいい!』ってなりそう!」

なのだそうだ。なるほど、気持ちよさそうに見えるのか。言われてみると分からないでもない。

実際、数日前には、点滴の針刺しを見ているのが嫌で、義母と一緒に家を出て公園に行ってしまったらしいし、今日も点滴中ずっと、別の部屋で動画を見て過ごしていたのだそうだ。

ところが、胃ろう中は、隣で結構くつろいで一人で遊んだりしていて、平気にみえる。

大人と子供のツボの違いは、子育てしているとしばしば感じるものだ。例えば満を持して買い与えた高価なオモチャより、安物を気に入るといったことは珍しくない。

大人のような予備知識を持たない娘は、案外単純に、先入観なく、点滴と胃ろうを並列に見比べて、点滴は痛そうで、胃ろうはコミカルと感じたのかもしれない。

もちろん、この先気持ちがが変わって来ることは十分あるだろうが、今は、娘の受け止め方を有難いと思おう。

怖くないの偉いよ、これからもママを応援してあげてねと言うと娘はさらに、
 
「これ以上応援しないとママ死んじゃうよ。
ママとずっと一緒に生きていたいもん!」
 
と応えた。

「これ以上」の表現が若干おかしいのは、娘の発言を一字一句違えず書いているからだ。

もともと娘は 「○○すると死んじゃう!」といった極端な表現をしばしば使うので、単なる強調表現として使ったに過ぎないのかも知れないが、さすがにちょっとドキッとした。


ところで、androidスマホの「アルバム」というアプリには、過去の写真を自動的に表示してくれる機能がある。

表示がされるたび、これは、病気の発症前、これは診断後、といった見方をしてしまうので、機能をオフにしようかと思ったこともあるが、やはり懐かしい写真を見るのは一面楽しく、そのままにしている。

過去の写真を見ていると、開花が早く、3月中に桜が終わってしまった昨年のことを思い出す。

今年は桜が一向に咲かない。

例年、咲いてしまうと嬉しい反面、終わりに向かうようで少し寂しくなるので、開花を待つ今の時期が結構好きだ。

間もなく4月、娘は、小学校に入学する。僕も4月から勤務地が変わる。開花を待つ時期だ。