何だか寝付けないので、もう一つ記事を書いてみる。

あまり気持ちのいい話ではないが、僕は過去に鬱病を患ったことがある。もう17年も前、2001年に始まって2年半程病院に通った。○○未遂や、入院もし、仕事も3ヶ月ほど休んだ。

今は、職場でもそのことを知らない人の方が多く、話すと意外がられるようになった。完全復帰できたのは、発症後に知り合い、こんな自分と連れ添ってくれた妻のおかげに他ならない。いまでも妻には無限の感謝をしている。

そのことがあってから、気持ちが落ち込むと、鬱の時期と比較してどうだったかをつい考える習慣がついてしまった。

鬱の時期の悩みの比率をざっくりと言うと、一番最初の頃は、
・後悔、恨み:6割
・喪失の悲しみ:4割
というところだったと思う。
人間関係を喪失したのがきっかけで、良い話ではないが後悔と恨みが大きく、すごくそこに固着していた。

が、これが一年くらい経つと
①後悔、恨み:4割
②喪失の悲しみ:2割
③いつまでもグダグダしている自分への失望:4割
に変化していった。
ポイントは、悲しみよりも恨みの方が根強いところだ。当時そう思ったことをよく覚えている。

また、さらに一年くらい経つと
①②後悔、恨み、悲しみ:1割
③自分への失望とこのままじゃ廃人という、未来への不安:9割
になった。

もちろん計測したわけじゃないし、遠い昔のことだからイメージでしかないが。

まとめると、恨みのように対象があるものは考えが固着しやすい。自分への失望も、実は対象を自分とした恨みのようなものなので、やはり固着する。
しかも、もう2度と会わない誰かを恨むより、自身を恨む気持ちの固着はなかなか取り去れない。

…あまりに暗い話なので、少し切り口を変えたい。

20代の頃、非モテ最下層コースをまっすぐ歩んでいた僕は、いい歳になっても当然のように独身で、そのことで常に心のどこかに負い目を感じていた。

既婚者としてカテゴライズされ、一種の権利を獲得したかのような理想としてあるべき自分と、現実には独身でどうにもなりそうにない自分とのギャップが悲しく、そういう自分を恨んでいる状態だった。悲壮な状態ではないが、プチ鬱だったと言っていい。

メディアでは、独身であることの利点を取りあげ、そのままでいいと言った意見も出ており、同じく非モテの友人ともそのように語り合い、自分は、あえて選んで独身でいるのだと自分に言い聞かせ、それでもなかなかプチ鬱は取り去れなかった。

自身の設定した理想と現実とのギャップに折り合いをつける作業は本当に難しい。
さっき、自身を恨む気持ちの固着は取り去れないといいたかったのは、つまりこういう感じのことだ。

無論、このプチ鬱を取り去ってくれたのも、他ならぬ妻であり、いまでも妻には無限の感謝をしている。
非モテの者にとって既婚者としての権利を得ることは、何らかの国家資格を取得することの200倍くらいは価値があると僕は思っている。

で今、妻のALSに関してどう感じているかというと
・喪失の悲しみ:6割
・未来への不安:4割
というところだと思う。
割合で書いたが、昔、鬱になったときに比べて大きさ、絶対値は比較にならないほどすごい。

ただ、唯一救いは、今のところ後悔や恨みにはとらわれていないことだ。予防も早期治療も難しい病気なのだから、後悔しても仕方ないと思うしかない。

ただ、とにかく妻が心配だ。

僕はいい。ダメージは大きいけれど、自罰的にならない限り鬱にはならないと思うし、やり過ごせる。
しかし、妻の悩みの質は僕とは違っていると思う。

僕は、僕を救ってくれた妻に無限の感謝をしている。本当に。だからといって何にもならないけど、気持ちを支える足しにしてね。