デジタル朝日より

『東京電力福島第一原発事故で福島県から横浜市に自主避難してきた市内の中学1年の男子生徒が名前に「菌」を付けて呼ばれるなどし、不登校になっていたことが分かった。問題を調査した横浜市教育委員会の第三者委員会がいじめと認定して報告書をまとめ、9日に一部を公表した。

 報告書によると、男子生徒は小2だった2011年8月に横浜市内の市立小学校に転校。まもなく名前に「菌」を付けて呼ばれるようになるなど、校内でいじめを受けた。

 小5の時には「(原発事故の)賠償金をもらっているだろう」と言われ、ゲームセンターで遊ぶ金などとして1回あたり5万~10万円を約10回、10人前後に支払わされた。お金は家庭から持ち出したという。男子生徒は断続的に不登校が続き、今も学校に通えていない。』

 

 

 これに対して各局ワイドショーのコメンテーターは、その中学生の人権を盛んに訴えていた。

 

 しかし、私はその中学生が放射性物質を体内に吸い込んでいて内部被曝していたら、常にその中学生は周りに放射線を放出している事になり、周りの大勢の人間の被曝の方が心配である。

 

勿論その中学生の人権は大事であるが、周りの人の人権はどう考えるのだろうか。

 

起こってしまったことよりも、これから起こることの方が大切だろう。

今の日本は細かなところを重視して、大きなところに目を向けない。

 

中学校の教師や教育委員会のレベルの問題ではないのである。国政レベルの問題であり、国政レベルの問題から見れば一部の不都合は後回しにしなければならない時もある。

 

いじめは何処の社会でもあり、どう対処していくかが社会勉強であり、処世術が身に付く貴重な機会とも言える。

 

個人の処世術の獲得の失敗を教育委員会や教師に振るのは筋違いである。

 

被災した者は数多いるのに、その中学生だけがいじめに合い、金を巻き上げられたというのは、その中学生個人の問題である。

 

最も目を向けるべきところは、原発を誘致した政治にあり、それを仕組んだアメリカにあり、それを受け入れた自民党にあり、反対しきれなかった野党にあるのである。

 

また、政府お抱えの学者にもある。

 

もっと云えば無自覚な国民に有るのである。

 

原発を日本に取り入れた時からこれくらいの事は覚悟するべきである。

 

せめて放射能汚染が分った時点で、土地に対しても人に対しても、それを拡散しないよう政府は手を打つべきだったのではないか。個人ばかりに目をやらず、全体も考えるべきである。

 

皆が皆、能無しなのである。

 

一番の能無しは、視野の狭いコメンテーターである。

 

 

 

ブログ管理者から:

放射能の健康被害についてはまだわからないことが多いようで、

何を信頼すればいいのか見当がつきません。

 

とりあえず、あの周辺の土地を政府が買い上げて、

汚染物質の処理場などを作ることはできないのでしょうか。

 

フタをせず、思い切った行動を取る覚悟が必要で、

そんなことをできるのは政府しかないように思います。

 

同時に私たちの意識も高めないといけません。

二十歳になった時、責任は自分で取らなければならないと自覚した。

だから親も含めて、いただいた意見を鵜呑みにはしないようになった。

若し信じたならば、何があっても仕方ないとし、騙されても諦めることにした。

自己責任である。

何十年もそれを基本に生きてきた。

しかし、誓いを忘れ、人を恨んだりもした。

今は何があっても目に見えない世界からの影響と考えている。

我が心の色に合うところからの影響である。

我を助けるもの、我に敵対するもの。

我を助けるものは、心を空にすることに対しても助けていただける。

敵対するものは、壁となる。

これらを納得した上で神に従い生きている。

二十歳も三度も過ぎれば心持ちも変わる。

しかし、世の人、覚悟なく勝手に生きて、責任を他者に押し付ける者多し。

 

 

 

ブログ管理者から:

身に起こることは、見えない世界からの影響であり、

それは結局、自分自身の投影ということなのでしょう。

 

ことが起こった際、責任を外に求めることなく、

自分を見つめ直す機会にするよう、心がけたいです。

神道では神に人の決意を申告したり、感謝に用いるものとして祝詞(のりと)がある。

祝詞の発展型でもないが、「ありがとう」などの感謝の意の言葉は、その反射として現れる気的変化が、それを感じられる者にはここち良いのである。

 

これは言葉の意味としての気が、目に見えない意識体に反応し、それが長年用いられることで、言葉を発するだけで自動的にその結果が発動するものであると考えられる。

 

即ち、「ありがとう」という言葉を発しただけで、周りの気の好転があるのである。

これは言葉力とでも言うものかも知れない。

良いことに用いる場合、祝い言葉となる。

縮めて祝言とでも言うべきか。

人に良い結果が得られる形のものなら、祝い形で祝形。

人に良い結果が得られ色なら、祝い色で祝色。

人に良い結果が得られる質のものなら祝質。

人に良い結果が得られる匂いなら、祝匂。

これらを纏めて視野に入れ、人に良い結果が得られることを目的とした術を祝術と呼んではいかがだろうかと考える。

 

中国では古来から、祝由という言葉が黄帝内経にある。

しかし、時代が下ると中国では呪術という表現に変わる。

 

これは中国ではこの頃より、人を呪い倒すとか、呪い殺すが処世術としていた為であると想像できる。

兵法と合わさったのではないかと思う。


中国では同族や家族以外は敵と見なす文化があった。

日本では、神に感謝し、人に感謝し、自然に感謝するという文化から、中国輸入の呪術という表現は異質に感じられる。

だから私は呪術という言葉は用いず、祝術としたい。

西洋でも白魔術と黒魔術とに別けている。

 

 

 

ブログ管理者から:

呪術ももともとは、良い方向のみに使われるべきものだったのかもしれません。

力あるもの、良いも悪いも使う人により、ということなのでしょう。

鍼を学ぶと、陰陽説や五行説、経絡説を頭からかぶせられ、無理やり納得させられる。
臨床に照らし合わせると、なるほどとという面もあるが、それらを宇宙の真理と捉えるのは早計である。

しかし、東洋医学の世界ではまかり通っている。そして、鍼師は陰陽説や五行説、経絡説の宣伝マンとなる。

これが鍼師の実体である。

この鍼師の納得は、実は洗脳である。
しかし、洗脳だと認識している鍼師はほとんどいない。

これらの洗脳に気付き、これを避ける鍼師は、往々にして科学的論理性を求め、電気鍼などに意識が向く。
又はその中間の現代中医学に傾倒する。

しかし、実際のところ科学的な理論も、中医学的理論も、実は洗脳なのである。


納得とは自分の能力で確信が持てるものでなければならない。
納得が真理に叶っていない時、それは洗脳となる。

洗脳を回避するには真理を見抜く力がなければならない。
この意味で、鍼師はじめほとんどの東洋医学家は洗脳されているといえる。

真理を得るには、命を授かってからの全ての知識を取り去ることである。

洗脳からの脱皮とは、知識を捨て去ることなのである。
知識の全てを捨て去ったとき、真理が見えてくるのである。

真理が見えなくても自分の能力の限界を知る者は洗脳から逃れられる。これを賢者と呼ぶのかも知れない。

自分の知識や能力内で常に判断する者は、洗脳されやすく、洗脳から逃れられなく、愚者と呼ばれるべき存在である。

陰陽説や五行説、経絡説が宇宙の真理と説くと云うは、全くの思い違いである。真理の一部である。

自分の能力の中で全てを評価する者は、永遠に進歩はない。そして洗脳から逃れられない。

このように納得とはいい加減なものであり、洗脳の一歩目である。



ブログ管理人から:
K氏のように真理に近づくと、世の中で言われていることの正しい部分とそうでない部分が見えるようになるようです。

一つの考え方に強く傾倒するのは危険であり、「洗脳」という言葉で批判しています。
自分の知識や能力の限界を知って、謙虚な気持ちでいるのが大切なのでしょう。

世の中は、これに逆行しているものが多いですね。自分の能力を誇示したり、主張することが正しいような。
そういったものをもてはやす傾向があります。

気をつけたいものです。

人の評価の中で高い評価を受けて、多くの人は満足する。

目に見えない世界を感じ、目に見えない意識体を感じ、目に見えない世界にこそ真理があると考える者にとって、人の世の評価に重きは置かない。

当然であるが、目に見えない世界に意識ある者は、人の世の評価は得難い。

論理と直感との違いのようなものである。



ブログ管理者から:
世の中のほとんどの人は、目に見える世界にしか関心はありません。
でも本当は、目に見えない世界があって、
むしろこちらの方が本質に近いのだと、K氏は言っています。

本質に近づくほど、人の世からの評価は受けにくくなるのでしょうか。
皮肉なものです。