「それじゃ、いいタイマンにしよーや」
OLが引き締まった顔でそう言いながら、ボクシングの試合が始まる時のように左の拳を突き出す。
「うん!」
ミオンはそれに応じるように左手を出した。
「あーあ、ミオンちゃんまんまと罠に引っかかっちゃったねー」
吹奏楽部の部室の窓から見ていたユウカが冷たい目をして言い捨てる。
「許せ向井地!!らぁっ!!」
互いの拳が触れるその瞬間、OLが叫びながら大振りに右手を繰り出した。ミオンは合わせていた左手を咄嗟に引き戻してそれを受ける。拳はミオンには当たらない。……だが、OLの攻撃の目的は達成された。
「つっ!!」
ミオンが目を抑えて飛び退いた。OLは密かに握っていた校庭の砂をミオンに投げつけたのだ。
「こいつサイコーにサイテーだ!いいぞ!もっとやれや!!」
「あ、あいつ卑怯な真似しやがって!タイマンを汚すんじゃねぇ!!」
相手の油断を誘い、眼に砂をかけるという卑劣な行為に、校舎や校庭の野次馬から批判と賛辞が入り混じった声が向けられる。
「見かけによらず卑怯な奴だなー、あいつ。予はあーゆーのマジ許せないんですけど」
窓から見下ろしているタカウジが手振りを加えながら強い侮蔑を込めて言う。
「タカウジ、あいつはどうしても大和田とやりたいんだよ」
諭すような声で十夢が言う。四天王の視線が校庭から十夢に向く。十夢は未だ真っ直ぐ校庭を見下ろしていた。
「さっきの大和田みたいな残忍なやり方が心底許せねぇんだよ、きっと。普段はそんな奴じゃねぇだろうよ……それに、わかってて向井地は砂を受けやがった」
「え!?」
「なんですとっ!?」
四天王達が驚きに眼を開く。
「お前にはお前の戦い方がある……そういうことだろ、向井地美音」
そう言った十夢の口角はキュッと絞られている。十夢から笑顔を向けられたミオンは、まさにその期待に応えようとしていた。
ーーー
「っててて……OLさんは意地悪だなー。いきなり砂かけはないでしょ!」
「向井地美音、あんた……」
「おかげで目が開かないよー」
眼を閉じたまま笑って、赤い右手を構えるミオン。目の前に立つ好敵手を見てOLは後悔の念に駆られた。なんて事をしてしまったんだろう、と。だがもうそんな事を考えてはいられない。OL自身、ミオンに特別な何かを感じていた。育まれるかもしれなかった友情を投げ捨ててまで、OLはナナと戦うための最短のルートを選んだ。それほどにOLは、相手の命を顧みない喧嘩をするナナが許せなかったのだった。
「もう引き返せんちゃん。悪かけどさっさと片付けさせてもらう……行くバイ!!《右往左撃》!!」
目を開けないミオンに、猛然と殴りかかるOL。鋭く振り抜かれたそれは当然ミオンの頬を抉った。
「ゔっ」
短く呻くミオン。だが倒れはしない。
「我慢はせでさっさとくたばってバイ!!」
間髪入れずに今度は逆で殴る。ミオンはまた、もろに喰らう。だがその表情からは苦痛は感じ取れない。続けて右フック、左フック、右ストレート。無駄なく流れるようなコンビネーション《右往左撃》を、ミオンは全てノーガードで受ける。
だが、倒れはしない。膝を震わせながらもぐっと踏ん張っている。
「らぁっ!」
ドカッ
「あぁっ!」
バキッ
「うりゃぁ!!」
どんなに殴ってもミオンは倒れない。OLは全身に汗をかきはじめる。それは運動の結果ではなく、精神の乱れからくるものであった。
『手加減はしとらん。なぜこいつは倒れんとね』
休む間なく打ち込まれる拳を、ミオンはただただ受け続ける。あまりにも凄惨な光景に、野次を飛ばしていた観衆たちさえ声を失った。校庭には拳が頬を打つ音だけが響く。そんな中、OLは不思議な感覚に襲われだした。
『痛い』
痛いのは敵を打つ拳ではない。自らの胸だ。……心だ。
右、左、右、左。ミオンの顔を揺らすたびに、OLの心は少しずつ欠けていく。怖くなって、早く終わらせたくて、もっと強く打つ。すると心からはもっと大きな破片が落ちる。辛い、辛い、辛い。
『くそっ、止めを刺す!私があのクソ野郎をぶちのめすったい!!』
「あぁぁあああっ!!」
OLはナナへの怒りに任せて思い切り右手を振り上げ、思い切り振り下ろした。
ビュオッ……
「……はぁっ、はぁっ、なんなんやこの痛みは!!くそぉおおっ!!」
渾身のフックがミオンの顔を打ち抜こうというところで、OLは叫びながら手を止めた。その双肩は大きく上下している。ミオンがゆっくりと顔を上げる。肌はいくつも割れ、右目は腫れ上がっている。だがその目には青い光が灯り、それはやはり希望に溢れていた。
「あなたの事、私はよく知らない」
ミオンが口元の裂傷を歪ませて笑う。それを見てOLは心を掴まれ動けなくなる。
「だから私はあなたの事を知りたかった。たくさん殴られたからよーくわかったよ。人を傷つけて、自分も傷つくあなたは、本当に優しいひとなんだって」
ミオンの柔らかい声を聞いてOLの体からスッと力が抜けた。引きつっていた顔も緩み、握っていた拳は柔らかく解ける。
OLはミオンの瞳を見て確信した。これが大器。大成するべくある者の輝きなんだと。
「私の負けだ……終わらせてくれ」
OLはそう言って拳を下ろす。ミオンは黙って頷いて、右手のグローブをグググっと握りしめた。
「それじゃ、いくよ」
「「出る!ミオン(様)の必殺技!!」」
ミオンとOLをを囲んでいた群衆の中から、コミとタツマキがひょっこりと顔を出して言う。
ミオンの右の拳が引きしぼられる。ぐうっと右足に体重が乗る。
「優、撃ッ!!」
空気の渦を発生させながらミオンの必殺技、《優撃》が繰り出された。その拳は辺りの空気を巻き込むように回転し、OLの顔面を打ち抜こう、というところで止められた。
ビュオオオオオン……
唸りを上げる旋風がOLのセミロングの黒髪をバサバサと激しく靡かせる。ミオンとOLの延長線上にいた観衆たちはその風圧に後ずさりせずにいられなかった。
ーーー
「え?あのパンチって……」
吹奏楽部部室からぼそりと声が溢れた。ユウカだ。ゆっくりと首を回すユウカの視線の先には十夢。その顔は驚愕を表している。
「私の《真打》と同じ打ち方、だと……あり得ない。あれを打てるのは私と、《こねぇ》だけのはず」
十夢はずずと、後退りして赤い1人掛けのソファーに腰を下ろした。その椅子は部長だけが座る事を許された椅子。かつてこの学園に君臨した最強の女が掛けていた椅子だ。
「あいつは誰なんだよ、優子姉ちゃん……」
十夢はそう言って首を椅子の背に預け、天井を見上げた。去ってしまった十夢の姉、大島優子のいるはずの空は、そこからは見えなかった。