昨夜は不思議と、「不安」で「眠れ」なかった。

「何」が「不安」か?

それすらも分からない。

まー。未来の支払うお金がない。

と言うのもあるし。

来月、生活するための収入源をどうするか?

とか、細々することは、あるけれど。。。


絶対に口座に入れた。と、思っていた

「水道光熱費」のお金を入れ忘れていたので、

口座から引き落としが出来なかったと言う。

「督促状」が来ていたのも

そうなのかもしれないし。

来月の、いや、今月の支払いをどうしようとか、

お話し会の参加者が、集まらない。と言うのも。

ぽろぽろと、悩める種は、落ちている。

そして、厚生年金も解約して、

国民年金に変更するって言う決断も。


でも、寝れないのは、

悩みがあってのことではなく、

「漠然」とした、「不安」。


2時とか、3時頃。

そして、私の取った手は、

先生の「カタカムナ」の「ウタヒ」を聞きながら

口ずさむこと。


「羊が一匹。羊が二匹。羊が三匹。」

ドンドン増えていく。



そして、気が付いたのは、

「神」、「仏」とは、

「未来」の「読めない」、「漠然」とした、

「不安」の時に、「すがる」もの。

もとい、「心」の「支え」になるもの。かな。

と。


「神」、「仏」と書いても、

用は一緒で、

「神」は、「一族」の「先祖」の「長」を祭って

子孫繁栄、一族の成功を祈るための対象。


「仏」は、「亡く」なった人。

これも、意識する対象は、

自分の知っている存在が結び付きやすく

パッと思い浮かぶのが、近い血族。

祖父や祖母。その上。

となるのが、私の中の感覚。


つまり、総称すると、「ご先祖」さま。

「神」、「仏」、「先祖」、「不安」


カタカムナを耳にして、口ずさみ、

「祈り」。。。かな?

と、その答えになんとなくなってきた。



私の「不安」の「要素」はきっと

「自分」が、「ウタヒ」を「上げて」いない。

つまり、「信じ」きって「いない」

カタカムナを、人に勧めていること。


まず、そこを、

「自分」が、「ウタヒ」に「ウタ」って、

他の人が勝手に、信じ始めるくらい

「自分自身」が「のめり込む」こと。


これが、私の「不安」を、

「生み出し」たのかなと。


そして、朝方目覚めに感じたのは、

「お話し会」ではなく、「カタカムナ」を

「広げる」「場」。

「参加者」が「増えない」のは、

「お話し会」が、今回のメインではなく、

「カタカムナ」を「広める」為の、「種まき」


「主軸」が「違えば」、「車輪」は「回らない」

「カタカムナ」を「広げる」「意識」で、

「参加者」をどう「増やす」か?を

「意識」してみよう。

ゲストがメインで、

メインがゲストになってしまいそう。


それが、流れ的に正しいのであれば、

流れが変わってくるだろう。

それも、ただの勘違いであれば、

流れは滞ったままだろう。

やって見なければ分からない。