世間は”日立は大きく変わるのではないか”と好意的に受けとめてくれ
たが、その裏では解決していかなければならない深刻な問題があった
3度の巨額の赤字計上を含む10年以上続いた低収益によって「財務
の日立」と呼ばれた強固な財務基盤は見る影もなく弱体化し、ムーディ
ーズなどの格付け会社が日立の格付けを相次いで引き下げたのだっ
た。格下げされると金利は上昇しサプライヤーは”納入した部品の代金
をちゃんと払ってもらえるか”と取引をためらうようになる。官需関係の、

商談には格付けの高い会社しか入札資格が与えられないことも多い。
つまり格下げは経営全般にとって大きな重荷になるのだ。危機を打開
するには公募増資を実施した。自己資本の厚みを回復するしかない。
「100日プラン」の項目のひとつとして11月に増資計画を公表した。
市場は我々の予想を越える厳しい反応を示し発表前は294円だった。
日立の株価はみるみる下がり2週間で238円になった。この大きな下
落を目の当たりにして正直、”増資をやめようか”と心が揺れた。考えて

みれば株価急落は株主から突きつけられた「不信任決議」のようなもの
だ。日立経営陣への市場の信頼はなきに等しかった。リーマン・ショック
から1年強たっていたが欧州発の金融危機など二番底が来るという説も
一部で有力だった。仮にそうなって大赤字を出せば巨艦は今度こそ海に
沈むかもしれない。私はやはり増資するしかないと覚悟を決め世界各地
の投資家に説明して回ることにした。私は11月10日ニューヨークに降り
立った。分刻みのスケジュールで投資家を訪ね深夜のフライトで移動した

彼らの言葉は具体的で容赦ない。”テレビの赤字垂れ流しは何年も続い
ているのに、なぜ放置したのか”、”ハードディスク駆動装置事業が日立
に本当に必要か”。どれもこれももっともな指摘であり彼らが”なるほど”
と頷くような返答は難しい。不出来な学生が口頭試問で、こってり油を絞
られるような心境だ。激しい叱責と議論に何日も身をさらし精神的にかな
りこたえたが、こちらの発するメッセージはひとつしかない”今後はしっか
り改革して株主の期待に応えるので今日ばかりは増資の応援をして欲し

い”というものだ。批判をしながらも最後に”増資は引き受ける”と言って
くれる投資家もいて目頭が熱くなった。こうした苦心惨憺の末に3千億円
強の資金調達に成功し、自己資本はひとまず安心できる水準まで回復
した。翌2010年は日立の創業100周年、今回は再建途上であり控え
目なパーティーで済ませた。だが、その頃になると目に見えて改善し私
なりに日立再生に向けた手応えを感じ始めていた。日立に復帰してから
1年後の2010年4月に会長職に専任することになった。
 
  ”川村さんの自慢話、”と減らず口を叩いた 私が恥ずかしくなる
  ぐらい血の小便をしながら 投資家の間を米つきバッタのように
  頭をさげ不眠不休で駈けずり回ってありました   ぐっさんハイ
私たち経営陣は「100日プラン」に着手した。近づける事業と遠ざける
事業の選別や公募増資、日立本体の各事業のもたれ合い体質の改善
そうして世代事業を社内外に示すことなど「やるべきことリスト」を4月か
ら100日でまとめ実行に移し始めた。当社の大仕事は日立情報システ
ムなど上場していた5つの子会社に株式公開買い付けを実施し、完全
子会社化したことだ。これが「近づける事業」というテーマに相当する。
日立は上場子会社が多くそれぞれが一定の自立権を持って経営して

いるので事業の重複による非効率が目立った。子会社側が”自立独立
で経営しているからこそ会社が大きくなった”、”上場していないと採用に
影響が出る”などと主張し改革は頓挫していた。だが危機は改革の好機
でもある。私自身が子会社のトップと面談しときには強引に説き伏せた。
年の功というべきか子会社のトップより私のほうが年長で比較的スムー
ズに運んだが日本流年功序列組織のミソである。この計画は発表直後
日経新聞が”頑張れ!日立製作所”という!”記事を掲載した。ミディア

から叩かれっぱなしだった日立の社員にとって久々に聞く応援歌であっ
た。私が現役復帰の前年度、09年3月期決算で日立は製造業最大と
される7873億円の最終赤字を計上した。一日当たり赤字額は21億円
で時計の針が1時間進むごとに1億円弱の赤字を垂れ流している計算
だった。社長室にひとり座っていると、おカネに羽が生えて金庫から窓の
外に飛び出していくような気がした。早急にやることのひとつに赤字事業
のリストラだ。長年赤字続きのテレビ事業から撤退することに異論はなか

ったが工場の後始末や雇用をどうするかで散々苦労した。テレビは海外
では中国やメキシコ、チェコで生産していたが、閉鎖または他製品に転
換した。腹を決めれば迅速な撤退は可能だった。やはり、難しいのは国
内事業の整理である。いきなり工場を閉めて社員を放り出すわけには、
いかないし地元経済への影響も考えなければならない。最終的に日立も
テレビの自社生産を終了したのは12年8月で撤退を決めてから実際の
撤退までに3年4ヶ月を要したことになる。これら、一連の仕事では現場

の方々に非常な苦労をかけた。経営者の重要な仕事のひとつは、それ
ぞれの事業の峠を越えたかどうか、もし下り坂だとすれば、いつどんな
形で店じまいをするかに常時思いを巡らせることだ。非常時のときばか
りでなく平時こその作業が大切だ。それを怠って命脈の尽きたゾンビ事
業を社内に残しておくと、それが他の事業の勢いをそぎ、ついには企業
が丸ごとゾンビ事業の集団に変わってしまう。09年4月に会長兼社長
に就任後「100日プラン」を策定し、その第一弾として上場会社5社へ
のTOB(株式公開買い付け)を発表した。
  
  不沈艦の称された巨大な船体を返り血を浴びながら冷静に分析
  して傷んだ箇所に見つけ出し、優先順位を定めたら果敢に敢行
  する川村さんの孤独な戦いがはじまりました。    ぐっさんハイ
日経新聞の「私の履歴書」には多才な方が、数多く登場します。今回は
世界的な規模であらゆる産業の会社「日立製作所」の相談役をされて
いる方なんですが親会社が沈みかけ危機に陥ったときに子会社から呼
び戻されピンチを救った方の登場です。お名前は川村 隆さん入社して
からの自慢話はさておき、現役のころ羽田から札幌に移動中、ハイジャ
ックに遭遇して九死に一生を得た強運の方でもございます。ではそのア
ンコの部分だけをパクって親会社を如何に蘇生させたかというところを

お伝えして、あなたの貴重な人生の参考になされれば幸いです。「私に
とって予想もしない転機が訪れたのは今から6年前、’09年3月のことだ
った。当時は日立マクセルの会長だった。前年の秋にはリーマン・ショック
が起こり日立グループも深刻な経営危機に陥った。この年度は7千億円
を超す巨額の赤字を計上することになる。だが齢(よわい)69歳に達し”
そろそろ引退の時期か”と考えないでもなかった。日立の窮状がどこか他
人事のように映っていたのも事実である。そんなとき日立の庄山悦彦会長

から電話があった。”川村さん次期社長を引き受けてもらいたい、ぜひ日
立に戻ってもらえないか”という突然の申し出だった。子会社から親会社
に戻った私は会長にひとつだけお願いした。”私が会長と社長を兼任し素
早く意思決定できるようにしたい”とお願いし受け入れてもらった。ホテル
に泊まり込んで10日ほど俄勉強した。ひと言でいえば「緩慢なる衰退」の
末にリーマン・ショックがやってきて会社は、沈没寸前にまで追い込まれ
たのだ。記者会見の席上”赤字は悪。一日も早く赤字を止めるために、

1年間は守り6攻め4の比率で経営する”。”総合電機の看板にこだわら
ない、多岐の事業のなかで近づけるものと遠ざけるものを峻別する”。”
経験と勇気をもって会社を再生していく”と述べた。こうして熱弁を奮って
も報道陣の反応は冷ややにみえた。4月1日会長兼社長に就任して23
人いる専務と常務は意思決定の会議から外して子会社から戻って副社
長に就任した私を含めた6人で大きな方針を決めることにした。会議の
参加者が10人を超えると、とたんに意思決定の速度が鈍り組織が停滞

する。社長兼会長に就任し大型連休明けに本社に所属する女性社員か
らメールをもらった。”日立製作所は2度の石油危機を乗り越え、不沈艦
と呼ばれましたが今は「沈みゆく巨艦」と言われます。何より哀しいのは
私たちがその呼び名に慣れてしまったことですと書かれていた。このメー
ルほど当時の社内のムードを映し出したものはない。その焦りと無力感
の入り交じったメールを読んで”ありがとう、いつまでとは言えないが、段
々立ち直っていくから見ていなさい月次決算を見ていればわかる、必ず
良くなる”と返事をしたのが精一杯だった。

 ”多岐の事業のなかで近づけるものと遠ざけるものを峻別する”。”23
 人いる専務と常務は意思決定の会議から外して子会社から戻って副
 社長に就任した私を含めた6人で大きな方針を決めることにした”。    
    目線の低い環境で体験を積んだ方ならではの決断 ぐっさんハイ