あるドキュメンタリー番組に私はくぎづけになりました。それは日本の運
命を決定的にしたフィリピンの「マニラ市街戦」の攻防の始末記でした。
まず一枚の写真が出てきました。そこには幸せそうな家族が微笑んで
いました。よくみると全員、着物姿でした。よほど親日家だったと思いま
した。ナレーターが”この家族は後のフィリピンの大統領になったキリノ
ファミリーだ”といっていました。45年2月9日午後、キリノ邸が米軍の、
砲撃で破壊されたために妻のアリシアが長女ノルマ、長男トマスらと、
一緒に近くにあった実家(アリシアの母親らが住むシキア家)に避難しよ
うとした。しかし、実家の向かいにあった日本軍の防衛拠点にいた狙撃
兵に銃撃されアリシアとノルマは即死、アリシアが抱いていた当時2歳の
娘フェが地面に投げ出された。フェはしばらく泣いていたが、近づいてき
た日本兵の手で刺殺されてしまう、、。惨劇のあとキリノ氏は現場に駆け
つけ血だらけになって家族を抱きしめましたが、だれひとり蘇ることはあ
りませんでした”とナレーターが淡々と語っていました。終戦となり、戦犯
裁判は47年8月1日から49年12月28日まで実施され被告151名が
有罪となりその約半数に当たる79名に死刑判決が下された。この厳し
い処断の裏には家族を惨殺されたキリノ大統領の日本軍への憎悪の念
があったことは否定できない。そのころのフィリピンは冷戦下という国際
情勢やアメリカ一辺倒の政策を見直そうという機運が高まる中フィリピン
国内では財政悪化で戦犯拘置費用の財政圧迫に悩まされていた。日本
の助命運動なども動きはじめた。フィリピンの国会議員が来日した際、
”アメリカには気を遣う、あなた方は戦争で迷惑をかけた我々に人形の
ひとつも送ったことがありますか”と痛烈な皮肉を飛ばしたことがきっか
けとなって戦犯の家族が中心となって手作りの人形が海を渡っていった
んです。その一体がキリノ大統領の実家にいまでも大切に保存されてい
ました。歌手・渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌入り
オルゴールが大統領の琴線に触れ恩赦に結びついたとのエピソードも
生まれたと語っていましたが、国内では日本の戦犯を厳しく処断せよと
の声も依然と高まったままで対日感情が依然厳しい中、キリノ大統領は
53年6月27日、刑の軽い戦犯を釈放し、死刑囚56人を終身刑に。終
身、有期刑の49人を特赦・釈放する恩赦令を決定する。 さらに7月22
日フィリピンでBC級戦犯裁判にかけられた旧日本軍将兵108人を日本
に移送するという温情ある決断をくだされたんですねえ。さらに同年12月
に釈放されたんです。これは戦争が終結して10年足らず。国内が大ブ
ーイングの最中に行われた英断だったんです。この歴史的な厳然たる
事実を韓国の大統領閣下に言上申し上げます
余談:ある新聞記者が戦犯を取材しようとモンテンルパを訪ね刑務所
にカメラを持ち込もうとして看守に制止された。ブニエ所長が姿を見
せ、次のように話して許可したという。”カメラは規則上絶対に持ち込
みは許されていません。しかし、あなたの持っている、その「妙な機械」
はいいでしょう。(中略)良いのを撮って下さい。家族の人々が喜ぶよう
に”。記者はブニエ所長について”私の会った限りの最も謙遜な、そし
て最も本物のヒューマニストであった。こんな人物を刑務所長に持って
いるフィリピンをうらやましく思った”と自著に書き残していました。
お隣りさん そろそろ未来志向と参りましょうか ぐっさんハイ