だがこのときばかりは社員に背中を押され進出を決めた。まず千葉県
松戸市、流山市、旭市。茨城県土浦市の4箇所の土地を押さえた。
渥美先生に相談すると”退く勇気も必要だ”と諭してくれた。迷いに迷っ
た挙句4箇所の地主に出店中止を申し入れた。実際に違約金は高かっ
た。本州への再進出を決めたのはバブルが弾けてからだ。このころ札
幌の証券取引所の上場を果たし労働組合も結成し会社としての体裁を
整えつつあった。本州での1号店は茨城県の勝田市。地主は幼稚園を

経営している方でニトリなど一切知らない。いつもの持論をぶつと好印象
を持ってくれた。ただ真向かいに2000坪の家具店がある。出店をため
らったが”ここで逃げたらいつになるか分からない”と思い直し出店を決
めた。オープン後、目標通りの売上と利益を確保。仙台にも出店を果た
し、全国区への足がかりができた。93年本州進出を果たした。翌年マ
ルミツ木工を通じてインドネシアに現地生産法人を作った。作ったのは
いいが現地社長との意思の疎通がうまくいかず毎年1億円以上の赤字

を出した。銀行のすすめもあって改めてスマトラ島のメダンに現地生産
会社を作った。95年から出荷をはじめた。松倉さんには”もう退路はな
いよ”と伝えた。もっとも当初は社員がトイレにはいったまま出てこなか
ったり、部品や電線を盗んだりトラブルだらけ。驚くことに重量1トンの重
機までなくなったので金属探知機を取り付けた。社員だけでなく外からも
窃盗犯がやってくる。このため2mだった塀を4mに高くした。すると今度
は塀に穴を開けてはいってくるので厚さを倍にした。それでも懲りない

窃盗犯は地下に穴を開けてやってくる。犯罪はなかなか減らない。実は
ガードマンにも原因があったのだから当たり前だ。8時間勤務の3交代
制で交代前後に大量に何かが盗まれる。誰が犯人か分からないので、
全員解雇したらマシンガンを構えて”皆殺しにするぞ”と脅してくる。慌て
てインドネシア海軍の関連会社に警備を頼んだら犯行は沈静化してい
った。会社も信賞必罰を徹底。皆勤賞を出す一方で”3回問題を起こした
ら解雇します”と宣言した。06年に東京に本部を構えたところ磐石になっ

ていった。だがスリルとサスペンスがないと会社は衰退する。そこで台湾
に出店することを決めた。しかし丸5年赤字。12年にようやく黒字化した
つぎは夢の原点であるアメリカだ。そこで中国出身で日本に帰化した古宮
を専務に招いた。採用当時は日本語も不慣れだったが彼は外国人という
珍しさを逆手にとり熱心に接客、短期間でトップセールスマンになった。
危険を顧みない「ニトリイズム」に満ちた古宮の武勇伝は面白い。’00年
初めオーガニックコットンが流行したがニトリが扱うには高価過ぎた。古
宮は綿の原料を仕入れに中国の新疆地区まで足を踏み入れた。
 
  社内では本気で彼らと向き合っていることが分かり始めた、さらに
  本気度を示すため、スタッフと家族それに有力ディーラーの慶事、
  入院したときに本社からの訪問者が、来馬したら日本人スタッフに
  お願いして見舞った 別名”冠婚葬祭屋”といわれた ぐっさんハイ
そこで外部から即戦力を集めるようになったが、これが裏目に出た。大
手量販店出身者を営業部長に据えたところ”古巣にいい人材がいる”と
いわれドンドン増やした。すると量販店出身者が8人のニトリ家具取締役
のうち5人も占めるようになった。彼らは次第に社内で発言権を増し、低
価格路線を否定するような政策を打ち出していった。脇の甘さから再び
追い出される危機を迎えた。80年代後半から途中入社した量販店出身
者が取締役の過半数を占め発言権が増すばかり。ニトリの低価格路線

は次第に価格を引き上げるようになった。私にも余計な口を出さないよう
にいってくる。中途組の役員たちに発言権を奪われた私はウツ状態に陥
った。ある日、私が締めているネクタイが同じバーゲン品だったので笑顔
で”同じネクタイだね”と話しかけると常務はいきなりネクタイを外し、踏み
つけたうえゴミ箱に放り投げた。私は怒りが爆発した。”こんなひとたちに
会社は任せられない”。一人ひとりの問題点を見つけ出し大半の量販出
身者は辞めてもらった。やはりニトリの生命線は「安さ」だ。問屋の目を、

かいくぐって製造元から直接仕入れていたが80年代からは海外からも
仕入れ始めた。もっとも”貿易”のイロハも知らず台湾や東南アジアの家
具工場を電話帳を片手に回った。所詮は素人粗悪品を掴まされたことも
あった。それでも海外仕入れに余念がない。私をみて社員は、”現地に
オンナがいるんじゃないか”と噂を立てた。仕入れて試行錯誤しているう
ちに家具メーカー、マルミツ木工の松倉さんと出会った。ものづくりの考
え方など気も合い海外にも一緒に出かける仲になった。そんな松倉さん

がある日、駆け込んできた。”従兄弟の会社に買収されてしまう私も解雇
されてしまう助けて欲しい”という。ひと肌脱ごうと北洋相互銀行の常務の
元に押しかけ、支援を願い出た。だが常務は”取締役会にかけないとダ
メ、私の一存では無理”と断られた。私は執念深くまとわりついて粘った。
根負けした常務は”あなたが責任を持つならお任せする”と自らの進退を
賭けてくれた。87年マルミツに出資した。マルミツは親会社に随分吸い
取られ赤字体質だった。ニトリの傘下にはいると一気に黒字化した。

80年代後半、北海道全地域にニトリの店舗が広がり、いよいよ本州進
出といきたいところだが足がすくんでしまう。ある日。社員のまえで”北海
道のため頑張りましょう”とあいさつ。するとニトリの79年組の4期生が
反発した。”日本に米国の豊かな生活をもたらすのがニトリの目的では
なかったのですか。全国展開しないなら私たちは辞めます”。これには、
参った。社長の意見を越え4期生を中心に”会社を発展させよう”という
自主性が芽生えていたのだ。まだニトリの売上は100億円にも満たず
利益率も5%程度。出店を加速させるには体力が乏しかった。
  
   社内では 対話不足をカバーするために 年に2回 社長室に
   全部のスタッフを一人ひとり招いて フリートーキングを行った。
   私からは”こうしたらもっとギャラがアップするぞ”とゼスチャーや
   絵と数字を書いてアドバイス。それが楽しみであり 励みになっ
   て社内は一気に盛り上がってきた。悪乗りして我が家でスタッフ
   全員と飯を食う会をやって カミさんには多大の負担をかけた。
   しかし、それが我々と彼らの壁を取り除いてくれた 中には自慢
   の手料理を披露するスタッフも現れた。  
       食文化など みたことのない生体に触れた ぐっさんハイ
週に1度の休みも工場見学を実施した。しかも過重労働に低賃金。当
たり前だが全員辞めてしまった。このため75年入社後は「幻の第一期
生」と呼んでいる。おかげで今の「ブラック企業」のレッテルを貼られてし
まった。さすがに週に1日は休みにして100時間だった残業を半分にし
た。母校の北海学園大学に募集の張り紙を出し見に行った。ところが、
誰も見てくれない。そこで学生の集まる場所に行って”どんぶり飯を2杯
食わせるから話を聞いてくれ”と声をかけて回った。食べている15~20

分の間に”いずれ100店舗をつくり100億円にする”と大風呂敷を広げ
ロマンとピジョンを熱く語った。すると触発された学生が12人入社した。
ニトリを大きく変えるきっかけとなった79年入社組だ。社内では「花の4
期生」とも呼ばれている。将来の幹部候補生が大量に入社した79年は
大きな転換期だった。当時の店舗は7店で年商は30億円にも満たない
分相応に100億円ぐらいの計画を立案した。が、クラブを主宰する渥美
先生は”もっと大きな計画にしろ”という。そこで100店舗1000億円とい

う途方もない計画を立てた。立案したのは79年だったが72年に遡りそこ
から30年後の02年達成の時期と定め1年遅れの03年に達成した。成
長に伴い家具の同業者はつぶれ取引先も変えていく。業界から妬まれた
り悪い噂をたくさん流される。おかげでちょっとした事件に巻き込まれてし
まった。ある日、刑事が電話してきて”ちょっと外で話ができないか、あな
たも困るだろうから”という。”やましいことはありませんよ”と返答すると札
幌の本社にやってきた。刑事は”あなた女性問題で男に恐喝され数千万
円を脅し取られていないですか”と聞いてくる。写真をみせながら”この店

に行ったね”。驚いたことに私が通った飲み屋をほぼ掌握している。遊び
に夢中の私は全然気づかなかったが2人の刑事が半年も尾行していたと
いうのだ。確かにこのころは調子に乗り毎晩のようにクラブをはしごし遅く
まで飲んだり歌ったり大騒ぎ。そこに顔を出していた女性の交際中の男
性に問題があったようでヘンな噂が流れたのだろう。刑事は”こういう噂
は十中八九は当たっている”と話し、銀行口座まで丹念に調べあげた。
派手な夜遊びを続けているうちに身に覚えのない噂が飛び交い突然、

刑事に”恐喝犯から数千万円を脅し取られたのか”と尋問された。1ヶ月
ほど過ぎ刑事もようやくシロであることを認めた。80年代は出店が続き
気分も高揚していたのであろう、道内全域にニトリ家具が広がった。中で
も函館は大きな転換点だった。81年、函館店が苦心の末オープンした。
それまで1店当たり年間売上は5億程度で函館店は6億円を目標に置い
た。ところが蓋を開けると12億円と目標の2倍、これまで担保不足で資
金調達に苦しんできたのが函館の成功で資金繰りは好転した。出店の
ペースが上がると今度は人材が不足してきた。
  
  無能な指揮官だとわかってからは よく私の部屋に社員が来て
  くれた そうして演説をぶたれた コミニュケーションギャップを、
  埋めるため 希望者だけ朝8時から「日本語教室」をはじめた。
  生徒の中には社員のほかに屋台の親父や仕立て屋の親父など
  近所の連中も顔を出していた 自前で日本へ帰国するたびにテ
  キストを抱えて帰任した 社内では組まれたらアウトになるので 
  回収会議には必ず顔を出して傍観した 会社の実態が手に取る
  ようにわかった                     ぐっさんハイ