私が扮する老婆ユカが70歳に達し村の掟に従って息子に背負われて
山奥に捨てられる。私は新雪の上にずっと寝かされ続けた。気温は零
下11度。顔に突き刺すような冷たさだった。どんなに重ね着をしても体
はガタガタ震え出す。シンシンと雪が降っている。その様子を私は飽き
ることなく眺めた。粉雪、牡丹雪、綿雪、さざめ雪、べた雪。雪はその日
の条件によって、それぞれ種類も形も異なる。降る速度まで違う。雪は
決して無口ではない。とても豊かな表情があることを生まれてはじめて

知った。1ヶ月半、途中私は氷で足を滑らせ右足のヒザを強打しヒザか
ら水を抜かなければならないほどのケガを負ってしまう。だから日程に
支障を出さないよう苦痛をこらえながらの撮影となった。私はユカとおな
じ70歳、草笛光子さん、倍賞美津子さん、山本陽子さんら49人の「老
女軍団」と協力して撮影を乗り切った。大きな挑戦だったが自力を出し
切ったという充実感が残った。今月2日で75歳を迎えた。私には夢が
ある…。80歳になったら高齢の姉妹が主役の映画「八月の鯨」に出て

みたい。これは’87年公開の米国映画。”ルリ子さんと倍賞千恵子さん
で日本版を撮ってみたいな”山田監督からこういっていただいた。老姉
妹の哀歓を描いた名作だけに80歳の自分しか演じられない味わいが
出せたらどんなに素晴らしいだろう。今からとっても楽しみにしている。
生涯現役…。女優として人生を最後まで全うできたら、これ以上の幸せ
はない。1ヶ月間、私の回想録にお付き合いいただきありがとうござい
ました。」とあけない完結となり、ほかのひとと違って美辞麗句に飾られ

あるいは世辞の句みたいな言葉や周辺に感謝する文言もなく、おしまい
にしたルリ子さんは芯の強い、この現世の荒波を泳いできた逞しさに感
じ入ってしまいました。余談ですが寅さんが50回まで健在で、めでたくリ
リーと所帯を持ったとしたら寅さんはリリーの尻に敷かれて”さくら”リリー
のやつオレのいうことなんか聞きゃしねえ”って、しょっちゅう愚痴をいっ
たんじゃないでしょうかねえ。さて最後に気になって仕方がなかったので
すがルリ子さんのスッピンを石坂の旦那は拝んだことがあったのでしょう

かねえ。この伝説にこんな記述がありました。真意の程はご本人にしか
わからない謎ではありますがその呟きを出前してお開きといたしましょ。
「71年に石坂浩二と世の羨望を一身に集め結婚したが、程なく別居。
結婚にいたる話で学のなかった浅丘が雑学の豊富な石坂に詰め寄ら
れて寄り切られたとありました。しかし石坂が劇団を立ち上げて女が、
できたことがキャンセルの原因と新聞にはありました。記者から”浅丘
さんのスッピンはご覧になったことは?”という愚問に石坂は”夫の前で
も化粧をしていない顔を一度も見せたことがなかった”」と記者を笑わせ
ていたとかいなかったとか。 車 寅次郎       代読 ぐっさんハイ

*もうしばらく出前させていただきます。

働くってのはな、博みたいに女房のため子供のために額に汗して、真黒な
手して働く人達のことをいうんだよ。
94年に公開した市川崑監督の映画「四十四人の刺客」で夫婦役として
共演することになったのだ。健さんは本当にイスに座らないのか。その
結論だけ先に言うと答えはイエス。健さんは決してイスに座らず、いつも
立ったまま共演者の撮影が終わるのを現場で黙って待っていた。こちら
が恐縮してしまうぐらい。ご自慢のコーヒーもご馳走になった。私もコーヒ
ーにはかなり、こだわりがあるが健さんのコーヒーには誠実な人柄が加
わるのでより奥深い味わいになる。後日、自宅にコーヒー豆をたくさん

送っていただいたので、ますます恐縮してしまった。「劇団誠」を率いる、
座長の松井誠さんは私に刺激や情熱を与えてくれる大切な親友である
いや、羨ましいですな。羨ましいといえば、国民的大スターだった石原
次郎のことにも触れないわけにはいけません。’87年7月17日ついに
悲報が届いた。闘病生活を続けていた石原裕次郎さんが52歳で逝去
したのだ。動脈瘤の摘出手術を受け奇跡的に回復したが病状が悪化
して帰らぬひととなってしまった。はじめて会った日活撮影所の食堂前

夕暮れの甲板でのキスシーン、東京から熊本までジャガーを走らせた
ロードムービー、アフリカで苦労した海外ロケ、、様々な思い出が脳裏
を駆け巡っていゆく。裕ちゃんとの関係をどう表現したらいいのだろう。
適当な言葉が見当たらない。日活の黄金期をともに支えてきた同志で
あり私にとって頼りがいのあるお兄さんであり心の恋人であった。血よ
りも濃い絆で結ばれた不思議な関係だった。ああそうかいと妬けてくる
ような濃厚な関係にあったようですな。さらに最終回にも気になる記述

がありましたので続けます。銀幕デビュー後、出演した映画は158本。
最後の映画は「デンデラ」、今村昌平監督の「楢山節考」の続編という
設定だった。監督は今村さんの長男の天顔大介さん。ロケ地は冬の山
形。打診されたのは山に捨てられる70歳の老婆の役。泥で顔を汚すメ
ークもあるらしい(どうしたらいいかしら)、出演すべきかどうか直前まで
迷っていた。様々なひとに相談したがなかなか結論が出ない。最後に
背中を押してくれたのが近藤正臣さんだった。それまで数々のドラマや

舞台で共演してきた「信頼できる親友」である。近藤さんは台本に目を
通すため、わざわざ私の自宅までやってきて、こんな助言をしてくれた。
”ルリ子さん自分をさらけ出すのは残酷かもしれない。でもこれは今しか
ない仕事です。挑戦してください。女湯としてチャンスです!”この言葉
で即決した。撮影がはじまったのは11年1月、山形は48年ぶりという
地元の方も驚くほど豪雪に見舞われた。ロケとしてはこれ以上にない
最高の環境である。だが出演者やスタッフにとっては大変な試練となっ
た。

例えば、日暮れ時、農家のあぜ道を一人で歩いていると考えてごらん。
庭先にりんどうの花がこぼれるばかりに咲き乱れている農家の茶の間。
灯りが明々とついて、父親と母親がいて、子供達がいて賑やかに夕飯を
食べている。これが・・・これが本当の人間の生活というものじゃない
かね、君~イ 車 寅次郎          代読 ぐっさんハイ
そのとき妹のさくら役の倍賞千恵子さんが涙ながらに寅さんに訴える。
”いまだからいうけど、お兄ちゃんとリリーさんが一緒になってくれるの
が私の夢だったんだよ”。店の前に待たせたタクシーにリリーが乗り込
むと寅さんが後ろから追いかけてきた。”ねえ寅さん、どこまで送ってい
ただけるんですか、、”。(寅さん)”男が女を送るっていう場合にはな、
その女のウチの玄関まで送るっていうことよ”。将来の結婚を予感させ
る言葉のやりとり、これがリリーへの秘めた思いを、ついに口にした、

寅さんの”最初で最後”の決断だった気がする。96年8月4日ガンの病
魔と闘い続けた渥美さんは68歳で天国に旅立った」。なかなかのタッチ
じゃありませんか。ここで、立て続けの男遍歴と悪態をついてしまった、
お詫びというか、名優の条件には共演相手を好きになるぐらい入れ込む
ことがあると思うんです。その意味において浅丘さんは印象に残る女優
さんの、ひとりじゃないかと思います。で、実際に所帯を持ったのは'71年
テレビドラマ『2丁目3番地』で共演した石坂浩二と結婚。”当時私は30

歳で『そろそろ結婚してもいいかな』と思っていたし、石坂さんは『あなた
は女優だ。結婚しても仕事を選んで女優を続けてください』と言ってくれ
ましたから。 石坂の趣味のひとつが絵を描くことで、二科展で何度も入
選しているほどだった。当時住んでいた家にはそれだけのスペースが、
なかったため別に部屋を借り、石坂はそこで寝泊まりするようになった
結婚している間に何度か同じようなことがありました。そういう状態がず
っと続いていたある日、、”彼から『いつも家にいてくれる人と一緒になっ

て、子供もほしい。母も引き取って一緒に暮らしたい』と言われました。
彼には、そういう人がいるのね』と思って、最終的には『わかりました』と
言いました。別々に離婚会見を開き、互いに言うことが違って、マスコミ
に騒がれることは絶対に避けたい。最後の話し合いから3日後の’00年
12月27日に離婚会見は開かれた。彼は最後まで『いえ、そういうこと
ではありません』と。しかし浅丘さんにとって、石坂との生活は得たもの
ばかりで、失ったものは何ひとつなかった。子供については、私は、ちっ

ちゃいお子さんを見ると、飛んでいって抱き締めちゃうほど好きなんです
結婚はしても、自分が母親になることは考えもしなかった”。とブログでは
つぶやいていました。ここで、北野武も驚嘆した、健さんは「座らない」伝
説について彼女は東映の看板スター高倉健さんにはこんな伝説があった
自分の撮影が終わっても共演者の撮影が終わるまで帰らずに立ったまま
待っているというのだ。寒い時は焚き火やストーブにさえあたらない。如何
にもストイックな健さんらしい逸話である。この噂を確かめる機会に恵まれ
た。さてどんなシーンで目撃したのかはつぎにいたしましょ。

 たった一度のの人生をどうしてそう粗末にしちまったんだ お前は
 何の為に生きてきたんだ  なに?てめえのことを棚に上げてる?
 当たり前じゃねえか そうしなきゃこんなこと言えるか!車 寅次郎