5種類の抗がん剤の洗礼を浴びながら3”回の化学療法に耐えな
がら1月26日、帰宅を許されて病院からの再入院の電話を待って
います。担当医からは”4回目が終わった時点でどうするか考えま
しょう”と言われて仮釈放でしたが見習いの医師から”年の割には
よく耐えた”とか”こんなに強力な抗がん剤を連続で投与するのを
みたことがない”とお世辞を言われましたが、内臓が破裂寸前で、

駆け込んだときの苦しみは耐え難く、それに比べたら抗がん剤な
んて、へっちゃらだと思うほどの苦しさでしたね。しかし実際問題、
体力がついていけず途中でギブアップするひともいるそうですな。
実際、まな板に乗ってわかったことなんですが、放射線の治療と
同じように際限なく治療を続けるわけにはいかない抗がん剤もあ
るんだそうです。つまり体を痛めながら劇薬で敵を撃退する化学
療法なんだそうですよ。果たして、ひと区切りとなる4回目でどんな

結果になるのか、、3月にはいってから”まだまだまだ生きていま
す”という出前をお届けさせていただけるのか、今しばらくお待ち
くだされば幸いです。折角の機会ですから、ぐっさんトークをお届
けしながら賢者には絶対、襟首をつかまれないよう祈願して失礼
いたします。再見!        出前本舗 店主 ぐっさんハイ!

出前本舗:売春防止法
過日、天神落語まつりに「笑点」の司会者、桂 歌丸が”ここにお
出ましの方で歴史的法律ができたことをごぞんじの方がいらっしゃ
ると存じます”と廓で育ったことを口にしていました。あたしゃ、いい
なと思いました((ポカっ)ちょっと、なんなのさ、それって)。いえ、
あまり深い意味はありません。バイシュンボウシホウ?ヤングに
はあまり聞きなれない言葉でしょうがおじんには忘れられない歴
史的な法案なんです。58年3月31日午前零時をもって女性が春
を売るってえ行為が正式に廃止になったという歴史的な法案なん

です(ちょっと、おっさん、えらく下っ腹に力をいれていますな)。あ
たしが修学旅行で大阪に行ったときのことなんですが、悪ガキの
何人かが”赤線がなくなるまえに探検に行ってくる”と肩を怒らせ
ながら1時間足らずで宿に帰還して報告会が行われたことを思い
出してしまいました。”いやあ、よかったよかったばい”と何がよか
ったのか一方的な報告会だったと思いますが、ありゃウソだと思
いました。だって宿を出て1時間足らずのチョンの間でナニができ
るというのでしょうか。それに坊主頭の、おどおどしたガキが、たと

え店までたどり着いたとしても、あしらわれてしまうんじゃないでし
ょうか。あのころのおじさんは若くてウブだった(ちょっと、証人が
いないからといっていい加減なこといわないで。本当はおっさん
が首謀者だったんでしょ)。まあ、そのへんは想像にお任せしま
すが、とにかく昭和33年3月31日午前零時をもって公に春を売
る商売が地上から消えた翌月に社会人としてデビューした男とし
て忘れられない痛恨の年を迎えたことが脳裏を離れるわけが、
ありません(頷くご同輩)。そこで、この法案で大論争が起こった

ことで少し紙面を使わせていただきます。まず争点になったのは
売春の定義。「妾(めかけ)」などの愛人との関係は売春に含まれ
るかどうかで丁々発止の質疑がスタート。法案に反対する赤線存
続派が、ねちねちと質問し賛成する赤線廃止派が応える”いわゆ
るオンリー(外人の恋人)。(略)”それと妾いわゆる2号といわれ
ておるのでありますがこれは除きますか?”。”妾と称しましても、
土曜、日曜、月曜、みな違うということになればこれまた(妾という)
名前だけでは言えないのでありますが、要は不特定であるかどう

か、これは具体的事実の即しまして(売春かどうかは)裁判所の
自由なる心証によって決定することではないでしょうか”。”毎日、
々々、一人ずつ特定しておる場合はどうでありますか?”。”だか
ら毎日相手が違うようなものは、それは特定したとは考えられま
せん。その後も「妾と売春」の線引きについて真剣な議論が続い
たと雑誌にはありました。深刻な問題ではありますが、あたしゃ、
不謹慎にも思わずにやっとしたセンセ方の質疑のヒトコマではあ
りました。最後に戦後初の女性参議員になった宮城タマヨ議員は

”彼女らは口々に政治の貧困を唱えながら女の最高の収入者
である。婦人議員ども、どうだという不遜な態度をいたしており
ます”と本音は売春婦が自分たちより稼いでいるのが気に食わ
なかったようで。しかしなんですなあ、男と女のドラマの舞台にな
った遊郭とか廓には悲惨なストーリーがつきものですが以前、上
京する機会があって吉原あたりを散策したことがあります、行き
倒れになった女性の無縁墓地があって哀れを感じさせました。
合掌。

  お断り:リアリティを尊重し、当時の発言はそのまま再現しま
  した。で、雑誌の文中に線引きとありましたが警察が地域を
  限定して、売春の許可し、その地域を図面上に赤線で囲んだ  
  ため「赤線」と呼ばれるようになったとさ 変しい変しい愛しい
  ひと                      再見!ぐっさんハイ
深夜の番組にしては視聴率が高かった「ヨルタモリ」が9月一杯で
打ち上げになってしまいました。わずか1年の命でした。長年、続
けた「笑っていいとも」のご褒美というかボーナスでタモリは好き勝
手に出演者とか演出を任されその一番手としてメガネにかなった
宮沢りえは”こんなインタビュアーみたいな仕事ははじめてで番組
が終わったらバタンキューだった、あたしの問いかけに的外れの
答えが返ってきたら、どうしよう”と悩ましい顔で話していました。

なんでも絵になる美形は得ですな。最終回のゲストはSMAPの中居
でした。SMAPのなかでも中居と慎吾はタモリを肉親のように慕って
おり、亡くなった中居のおやじさんとは気の合った友だちでなんども
中居宅でおしゃべりしながらタモリが料理の腕を振るったという秘話
も飛び出していました。麻雀の最中、タモリが乱入”おやじの胸を触
っている姿をみた俺の気持ちわかりますか”とも口にしていました。
そんな話で盛り上がっている最中に中居が”タモさん、もうひとりここ

まで来ているんだけど呼んでもいい?”というかいわないうちにドア
が開き慎吾が立っていました。いつもは大阪の工務店のおやじと
か近藤さんという岩手のジャズ喫茶のマスターではなくタモリ本人が
出演していました。慎吾も現れました。草薙といえば都内の公園で、我を忘れてマナーに反する行為で警察のご厄介になって、慎吾か
らケアを受けたぐらい仲がいいんです。あたしゃ、そのほかのSMA
Pのメンバーであるキムタクや五郎も来るのかなと思いましたが姿
を現しませんでした。例によってタモリの社内演芸が飛び出して、

今日は中東のカスバの場末のようなところで罵声を張り上げていま
した。愉快なトークが終わって出演者のテロップが流れてお開きか
と思いましたらタモリと、りえママがふたり並んでシャンパンを傾け
ながら、りえママがタモリに流し目を送りながら”♪やっとタモリさん
が来てくれた~。いつもサングラスのタモリさ~ん 暗闇の奥になに
をみてるの、、暗いのにサングラス 明るくてもサングラス その先
になにをみてるの~ みえたものを教えて~”。タモリは照れくさそう
に俯いていました。でも満更ではなさそうな顔をしていました。

 エ~ッこれで今年は打ち止めです。まさかこうしてキーが叩ける
 とは思いもしませんでした。ただいま再入院した模様をメモ帳を
 解読しながらキーを走らせています。が、薬漬けから解放された
 ものの今イチ、シャキッとしませんが気長に絞り出していきます。
 なお4度目の再入院は1月5日の予定ですが、緊急を要する事
 態からは遠ざかりましたのでさらに遅れるかもわかりません。
 いずれにしても次回は2月のはじめにはお会いできると念じな
 がら、一般人をめざして西洋長屋の周りを徘徊しています。
 賢者のみなさんにはよいお年を!         ぐっさんハイ
シナリオライターである倉本 聰がみた大物スターとして”日活と契
約したころ僕は世田谷の水の江滝子さんの自宅でごろごろしていた
その家は石原裕次郎さんの邸宅の庭にあって、風呂上りの裕ちゃ
んが、ぶらりと来て冷蔵庫からビールを出して飲む。男が見ても惚
れ惚れするほど格好いい。僕の同い年だが大スターと駆け出しの
脚本家と身分が違う。あまり話せなかった。僕が札幌に移ってから
再会して飲んだとき”聰さん文芸作品を書いてよ”と言う。脚本を、
つくりハワイの裕ちゃんの別荘で3回打ち合わせをしたけど石原プ

ロのGOサインが出ないまま’87年に逝ってしまった。最後まで新し
い裕次郎を模索していったと思うと残念でならない。4歳年上の勝
新太郎さんを僕は敬意を込めて”勝っちゃん”と呼んだ。長唄三味
線の杵屋東治さんの次男で兄は若山富三郎。ひらめきが鋭い右脳
のひとだ。しゃべりながら頭に映像が浮かんじゃうが理詰めに思考
する左脳があまり働かない。”なにか書いてくれ”と言われたが、
いつも口論になって立ち消えた。ドラマ「町」もそうだ。人気脚本家
が売れなくなってヒッソリしているが周囲の応援で書き始める。勝

っちゃんの”アクションがねえな”と言って間もなく体調を崩して亡く
なった「町」は杉浦直樹さんの好演で評価を得たが勝っちゃんに
やらせたかったなあ”。紙面がすこしありますので、倉本 聰のよう
な大物ライターが江戸からなぜ北海道に出奔したのか、その辺の
経緯について記述することにいたします。’74年に始まったNHKの
大河ドラマ「勝海舟」に厄介事が持ち上がった。いいドラマをつくり
たい一心から出演者との交渉に当たった。”脚本家がやりすぎだ”
という反感もあったようだ。あれこれあったけど決定的な問題は

週刊誌の報道を引き金に起きた。渡さんの役問題で女性週刊誌
から取材されることになって僕が応対することになった。NHKの広
報の指名だった。やってきた記者はNHKの不手際ばかり熱心に聞
く。記者が帰ったあと”やばいな”と思って版元の大手出版社に行った。案の定、番組づくりを中傷する内容だ。番組スタッフから徹底的
に吊るし上げられた。”記事の内容をよく読んでくれ”と言ったが聞く
耳を持たない。悔しくて泣けてきた。局を出るとタクシーでそのまま
羽田空港に向かった。どこでもいい東京を離れたくて札幌行に乗っ

た。’74年6月17日だった。当座、身を隠す隠密作戦。これで仕事
はひとつもない。”もう終わったな”と思った。ススキノを毎晩飲み歩
いた。半分ヤケだった。いろんなひとたちと飲み、しゃべり、遊び歩
いた。そんなときフジテレビの嶋田、中村両プロデューサーがどう
やって探し当てたのか旅館に現れた。”なんでもいいんですドラマの
脚本を書きませんか”。”えっ?”。と戸惑っていると”中村くん、あれを、、”と言って中村さんが差し出した熨斗袋にはなんと50万円が入っていた。まさに干天に慈雨だった。

 残念ですが紙面がおしまいになってしまいました。かくして倉本聰
 氏は北海道は富良野に腰を据えて「北の国から」、「風のガーデン
 」などの珠玉の名作が失意の体験を通して世に喝采を浴びるよう
 な大物シナリオライターになったんですねえ       ぐっさんハイ