その527 | 大鐘 稔彦のブログ

その527

☆今年の正月は主に島外の旅先で過ごした。数年前サンフラワー号で九州へ出かけて以来だ。今回も旅先は九州で、福岡、長崎だった。主たる目的は、長崎の離島五島に住む今村さんを訪ねることだった。

 今村さんは私が東京の某外科病院にいた時出会った患者さんだ。近くの会社に勤めていて、ある日、血便を見たと言ってこられた。大腸の左側、下行結腸に癌が見つかった。即手術をした。

 今村さんは20代前半で交通事故にあい大怪我をし、左脚に後遺症を残した。癌は二度目の人生の危機であったという。最初の手術を手掛けた整形外科医と二度目の手術の執刀医の私は、だから命の恩人ですと、手紙で何度も言ってくださった。

☆その手紙であるが、いつから下さるようになったか、記憶が定かではない。今村さんが退院してほどなく、私は埼玉の病院に移り、そこも二年ほどいただけでここ淡路島に来たが、その間ずっと手紙を下さっていたわけでもなく、今村さんもほどなく故郷の五島に帰られてから折々手紙や、郷土品や、趣味で手掛けておられる鉛筆画の人物像を送ってきてくださるようになった覚えだ。

 何年か前,五島の観光案内のパンフレットなどとともに、ぜひ一度遊びにきてくださいとお誘いの手紙をいただいた。前回九州への旅のおり、五島にまで足を延ばしたいと思ったが、熊本の知人を訪ねることを優先したために叶わなかった。

☆そうこうするうちに月日がたち、今村さんも八十路に至って数年と知り、こちらも後期高齢者、今生の別れを告げに行こうと思い立った。長崎も一度行ってみたいところだったからだ。

 幸い連れ合いも一緒に行くと言ってくれたので、勇躍出かけることにした。リビングに今村さんが何年も前に送ってくれた愛犬の健太君と映っている写真が飾ってあり、私も彼女も犬好きということもあって、健太君にも会いたくなったからだ。

☆一月一日、私はブリーダーさんに、彼女は実家の息子に犬を託し、徳島空港からまず福岡へ発った。午後9時近くなってのチェックインとなったのと、正月のこととて開けている店はなく、コンビニでおにぎりでも買っていくしかないかと半ば諦めながらホテルの界隈を物色していたら、一軒だけ明かりのともっている店があった。中華料理店で、日本語があまり話せない中国人が、女性一人を交えて三人いた。先客も二人ばかりいた。昼は陸に食べていなかったから、ハッスルして大いに食べた。別れ際、「うおう、あい、にー(I love you)」と中国語で言ってやったら、店員はみなうれしそうに笑ってくれた。

☆翌朝、福岡空港から五島の福江空港に飛んだ。かつて徳洲会の離島を回った日のことが思い出された。所要時間40分、エメラルドグリーンの海が眼下に見えてきたとき、ことさらに往時がよみがえった。奄美大島と徳之島で、直腸癌と食道癌の手術を確か二件したなーと。

 空港の小さなロビーに今村さんが待ち構えてくれていた。実に25年ぶりの再会だ。私のリビングにある写真は15年前のもので、健太君は一歳そこそこだと聞いていた。

 さすがに今村さんは老けていたし、杖を片手にしていたが、頭も声もしっかりしていた。定年後タクシードライバーになっているという甥御さんが一緒に来ていて、「この人が案内してくれます。まず、島のはずれの灯台へ行きますよ」と、彼を紹介してくれた。立派な体つきで、毎週月曜日WOWOWのエキサイトマッチで世界のボクシングの解説をしている元世界チャンピオンの浜田剛にそっくりだよ、と連れ合いに囁いた。後日テレビで浜田剛を見て彼女は納得してくれた。

☆その大瀬崎灯台は、木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」の舞台になったもので、当時ロケ隊が何日も逗留したという。灯台の向こうには東シナ海が開かれていた。ざっと二時間あちこちをめぐってくれた末に、今村さんの家に案内してくれた。健太君が飛び出してきた。人なつっこい。我々が犬好きと分かったのだろう、今村さんにじゃれついた後は、我々にすり寄ってきた。写真は今村さんと健太君と私で、連れ合いがとってくれたものである。(この稿続く)