その196 | 大鐘 稔彦のブログ

その196

文学論その3になります。

 社会人になって家庭も持った長女と大学生の娘二人が村上春樹にのめりこんでいると聞いて、私も初めて彼の作品を読みました。昔ベストセラーになってマスコミを賑わした記憶のある『ノルウエーの森』と『ねじまきクロニクル』。想像していたのとは大いに違って、なんと読みやすい作品かと思いました。いずれもかなりの長編ですが、一気に読ませるのは流石。しかし、読後感は清清しいものではなく、娘たちがこれに現を抜かしているとしたらいささか問題、と感じました。

 次女は二浪の後大学に入りました。最初の年は、何のために大学へ行かなきゃならないのか分からないといって受験もせず浪人、次の年は少し思い直したのか、相変わらず人生の意味を見出せないまま、姉が推薦入学で入った学校一校だけを受け、失敗して浪人の身となりました。予備校にも行かず、家でぶらぶらしていただけなのに、3年目に前年受けた大学に入ったと知らされたときは、ほっとする反面、驚きました。しかし、次女はなお悶々として、講義にも身が入らなかったようです。そんなときに村上文学と出くわし、ぐいぐいと引きつけられていったようでした。

 村上作品の主人公は、言うなれば社会のアウトサイダーで、世をすねて内にこもっている人物で、自慰的な生活に明け暮れています。井戸の底に潜って、そこで日がな一日物思いに耽っていたりする。それで生活には困らないというなんとも理不尽な設定です。

 世をすねて生きている人間にとっては、そんな主人公の境涯がなんとも羨ましくなるのでしょう。己を主人公に同化させることで、この世における居場所を得たような心地になるのかもしれません。しかし、そこに救いはないのです。この作品を読んで雄雄しくこの世の荒波に向かっていこうという士気はおよそ奮い立たせられないでしょう。

 ドストエフスキーやトルストイの作品、殊に『罪と罰』や『復活』は恐ろしく暗い小説です。主人公たちはやはりアウトサイダーといわれる人間です。しかし、いずれも極寒の地シベリアへの流刑で終わるこの二つの作品には、人の魂を根底から揺さぶり、救いをもたらす力があるのです。真の文学はこのようなものでなければならないのです。

 次女は最近やっと明るくなりました。村上文学から脱却し、ドストエフスキーを読み始めている、と手紙をくれました。その一節をご紹介して今回は終わらせていただきます。

「『カラマーゾフの兄弟』、やっと第一巻を読み終えました。本の出だしはなかなか読み進められなかったものの、中盤以降は一気に読むペースが上がってしまいました。このまま5巻まで読み終えてしまいたいものです。人間の善と悪についてこれほどまでに考えさせられるものは今までなかったのですが、この前読んだ『悪霊』といい、ドストエフスキーの作品の特徴でもあるのでしょうか。人間の複雑な心理をなぜこんなにも的確に、リアリティを持って表せるのか、やっぱり天才だな、と思いました。ドストエフスキーの作品をすべて読んでみたいです。何か人間や世の中に対する見方に大きな影響を与えてもらえそうでわくわくします」




朝食

写真はいつか書きました私の10年一日の如く変わらない朝食です。