チャイコフスキーの『花のワルツ』を聞きながらチャイコフスキーは、どんな「美」を表現したかったんだろう?
チャイコフスキーもラフマニノフも祖国ロシアから「庶民レベルの美意識に迎合している。」と批判されている。
「クラシックは芸術で、もっと重々しいものだ。」と批判されている。
自動車のデザイナーが「後、一筆は表現しない、見る人に委ねる。」と言っていたけど、チャイコフスキーは、その最後の一筆を描こうとしている。
チャイコフスキーには漠然としたイメージがあって・・・。
それを現実化しようとしている。
しかし!
楽器やオーケストラには限界があって、バイオリンはバイオリンの音しかしない。
ピアノはピアノの音しかしない。
バイオリンの音色だけではイメージを表現しきれない。
やはり限界がある。
欧米人は結論から話始める。
日本では野球解説者が「このピッチャーは球持ちが良い。」と言ってる。
「それが、どうして打てないのか?」
どうすれば、そんな投げ方が出来るのか・・・。
何も分からない。
そんな結論の無い話でも「何か感じるんだ。」という気持が伝わって。
[さっして]
そうか!
球持ちが良いと打てないのか‼と伝わって、それが考える共通の基盤になっていく。
ヒントも共有できて、同じものを積み重ねながら容易に理解している。
車のデザイナーの言う「最後の一筆は描かない。」
それは、見る人の美意識を刺激して・・・。
見てる人の美意識を引き出して、見てる人は自分の美意識を見ている。
そして!
見ている人の中で完成していく。
ルノアールの描く女の子も、絵を見てる人の美意識を誘い出して、絵を見てる人は自分の美意識を見ている。
ルノアールは最後の一筆は描かない。
見てる人に美意識があるからこそ、ルノアールの描く女の子の美しさは伝わっていく。
ルノアールの絵を見てる人は、自分の美意識を見ている。
チャイコフスキーの『花のワルツ』を聞きながらチャイコフスキーは、どんな「美」を表現したかったんだろう?
車のデザイナーのように。
見てる人の美意識を目覚めさせる。
最後の一筆は描かない。
『古池や蛙飛び込む水の音』
芭蕉は、ありふれた言葉で表現している。
「きっと分かってくれる。」
「信じてる。」
というメッセージが伝わって、読者の自尊心を、くすぐると!
その通り。
読者は、この句に最高の評価を与えて芭蕉の期待に答えている。
欧米人には結論のない話は通じない。
チャイコフスキーは完成させたかったみたい。
しかし!
楽器やオーケストラには限界があって。
チャイコフスキーの能力の限界ではなく、楽器の限界で表現しきれない。
一本足打法も完成形として見ると、分からない。
知り得る知識を総動員してると・・・。ヒントは見つかって。
話を組み立て直すと、もう一本足打法ではなく、プランBに変化している。
さっして理解する日本人には、結論の無い話でもストレスは感じない。
違和感なく、さっして理解する。
チャイコフスキーの『花のワルツ』を聞きながら、チャイコフスキーは、どんな美をイメージしてたんだろう?
現実の音を聴いて、彼は表現しきれない、もどかしさと感じた方が良いのかも知れない。
一本足打法ではなく、プランBをイメージしていると、フッと気付く。
日本人には本音と建前があって、口では「YES」と言ってるけど、これは断っている「NOだな!」と、ちゃんと理解している。
日本人にとって、話し相手の気持にシンクロさせる方が重要で、言葉の意味は二番目でしかない。
チャイコフスキーの『花のワルツ』を聞きながらチャイコフスキーは、どんな「美」を表現したかったんだろう?
編曲されていく[前のイメージ]があるはず。
チャイコフスキーは、どんなイメージで編曲しているんだろう?
そんな想像をしながら『花のワルツ』を聴くと、プランBが聞こえてくるのかも知れない。