田淵幸一は「インサイドアウト」だと言う。
どこから、その言葉が降りてきたんだろう?
しかし本人は、どうしたら良いのか、その方法までは思い付かない。
それが不思議で、どうして、そんな言葉だけを思い付いたんだろう?
どこかで、そんな言葉との出会いがあって、漠然とした思いがイメージ化できたのかも知れない。
「インサイドアウト」という言葉に、なにか感じるものがあったのかもしれない。
しかし、そこまでで。
どうすれば良いのか?
その方法までは思い付かない。
[ひらめき]は、とりあえず思い付いた言葉を眺めていると「アッ!そうか。」と気付いて・・・。
その言葉でイメージできて。
漠然としたイメージが具現化できるのかも知れない。
江川卓は少し投げ上げるフォームが原因して、変化球は、どうしても山なりで放物線を描くことになってしまうので、フォークボールを投げてもカーブになってしまう。どんな変化球を投げてもカーブになってしまう。
江川卓が直球とカーブのピッチャーだったのは、投げ上げる投球フォームが原因している。
「投げ上げる」という言葉で、イメージは膨らんでいく。
その言葉で、いろんな因果関係が見えてくる。
その言葉で、いろんな気付きを得ることができる。
とりあえず思い付いた言葉の類語で検索してみれば良い。
「アッ!これだ。」と[ひらめき]を得ることができる言葉と出会えるかも知れない。
人には理解できる範囲やリアリティーを感じることのできる距離があって、どんな体験するかで、それらは違ってくる。
距離感が近いとリアリティーを感じて、離れていくとリアリティーを感じない。
他人事だとリアリティーは感じない。
しかし!
『不思議の国』は遠く離れた架空の世界だけど、不思議なリアリティーがあるのは、彼は、そんな妄想で癒やされている。
気持ちが安らいで・・・。
彼は、そんな妄想ばかりしている。
「彼はアリスのような女の子が好きだったのか。」
ついつい!
そんな妄想で長い時間を過ごしていたので現実感が生まれたのかも知れない。
「学者達は、そんな答えを探していたのか。」
そこには「そうか!」という学者の気付きがあって、リアリティーがあって体験できるのかも知れない。
日本人にはユニークな学習能力があって。
それは!
誰かが気付けば良い。
「教科書は正しい。」と固体化するのではなく、学者の空想やフッと気付く様子を描写して、流動化すれば、変化する様子に、日本人の学習能力は覚醒するのかも知れない。
仲間外れが怖くて、自分で判断でない。
しかし!
とりあえず、ついていくと、そのうち分かる。
主体性がない!
としか思えないけど、学者の「そうか!」という気付きにシンクロできる。
従属性も、そこまでいけば才能かもしれない。