江川卓は巨人への入団時の騒動で、人のいろんな性格や、いろんな側面を見ることになってしまった。
見なくても良いものを見てしまった。
体験しなくてもいいものを体験することになった。
批判してる人を見て「自分のことを知らないだろう!」
「知りもしないで批判してる。」
むしろ自分のことを知らない人間の方が口汚く罵っている。
ユダヤ人も同じ体験をしている。
知りもしないくせに自分達を嫌っている。
アメリカのドラマで刑事は「コイツが犯人だな。」と疑っているけど証拠がない。疑っていることを相手に悟られないように会話をしている。
やがて犯人として追い詰めていくんだけど。
そしてドラマを見ている視聴者も、それを知っている。
やがて!
犯人として手錠をハメられて、きびしく追及されていくけど、まだ刑事は相手に敬意を示す話し方をしている。
犯人にも敬意を持って接してくれる瞬間があつて。
軽蔑と敬意。
脚本家は、そんな描写にリアリティーを感じているのかも知れない。
「敬意を示す」で検索すると。
「敬意を表す」とは、他人に対する尊重や尊敬の気持ちを、言葉や行動で示すことを指します。歴史的に、社会の中での階層や役割に応じて、人々はお互いに敬意を払う文化が形成されてきました。現代においても、ビジネスや日常生活の中でも、この敬意はコミュニケーションの基礎となっています。
江川卓は、まるでドラマの犯人のように、人のいろんな性格や、いろんな側面を見ることになってしまった。
見なくても良いものを見てしまった。
体験しなくてもいいものを体験することになった。
ユダヤ人は、自分達のことを、存在を否定される階層として感じている。
軽蔑される階層として感じて、そしてそれとは反対に裕福な階層としての立ち位置も経験している。
自分を嫌い、そして軽蔑している人との会話は気が重く、言葉が出ない。
そして言葉を失ってしまう。
反面で、自分のことを好ましく思ってくれる人に対しては自然に言葉が出てくる。一体何処で記憶したんだろう?と不思議に思う程、ぴったりな知識が浮かんでくるのかも知れない。
ユダヤ人に学者や芸術家が多いのも、歴史的に何度も何度もホロコーストを体験して、高いところから落下する[負のエネルギー]から、より高く、跳ね返る[正のエネルギー]が生まれてくる。
「反面と半面」で検索すると。
『反面』は、対立する内容を述べる時に使い、『半面』は必ずしも対立するとは限らない、両面を持ち合わせている片一方について述べるときに使う。
江川卓も「高めに投げるな。」が常識の時は気付かないけど「高めの速球は打てない。」という正反対な先入観で見ると、欠点が才能として見えてくる。
ドラマの中で、買春した男は、実は神父だった。
[敬意と軽蔑]という、買春をした男に対する、刑事からの扱いの変化を脚本家は描写している。
脚本家は、刑事の犯人に対する敬意や、正反対に軽蔑される立ち位置の変化に、なにか特別なリアリティーを感じているのかも知れない。
脚本感は、買春した男の発する言葉に意味を持たせたいのかも知れない。
ユダヤ人に学者や芸術家が多いのも、高いところから落下する[負のエネルギー]から、より高く、跳ね返るボールのように[正のエネルギー]が生まれてくるのかも知れない。
イノベーションの第一段階は、空想や仮説のように科学でなくても良いのかも知れない。
現実から遊離していく心理と[ひらめき]は、同じものかも知れない。
もっと[負の思考力]に注目すべきなのかも知れない。