『ローマの休日』を書いた脚本家トランボは赤狩りで祖国から追放されて『パピオン』のような救いのない絶望的な物語を書いている。
トランボは存在を否定されて、どうしてこんなことになるのか[答え]が必要だったのかも知れない。
今・この瞬間!自分の身に起こっていることに呆然としている。しかし怒りや恐怖という現実感に気持ちは大きく揺さぶられる。そんな心境だったのかもしれない。
トランボは[答え]が必要で・・・。
そんな気持ちに背中を押されながら脚本を書いている。
そして!
「そんな答えを探していたのか。」
「そんな答えが必要だったのか。」
文章を書いてると、たまたま思い浮かんだ言葉は、自分の内なる感情が引き出されてくる。
そして連想ゲームになっていく。
AIに必要な能力は[学習]と[推論]とTVで言ってたけど。
誰しも[答え]が必要な時があって。
人が、ものを考えるのは言い訳だったり、言い逃れだったりする。
そんな時!
自分を守ってくれる、自分を正当化してくれる[答え]が必要で、意外と自分は、どんな答えを必要としてるのか、分からない、気付かないことが多くて。
たまたま使った言葉の持つ意味から気付かされることが多い。
もしかして!
それは学者も同じかも知れない。
思考の初期の段階は、空想のような科学ではなく、学者の個人的な事情を知ることで。
学者は「そんな答えを探していたのか!」と答えに、生々しいリアリティーを感じることができる。
個人的な事情を知ると、学者の連想ゲームとして読めて、気付きも体験できるのかも知れない。
「me too」や「Biack Lives Matter」の様に、考える共通の基盤があると。他人の体験や他人の言葉を共有しながら・・・。
疑似体験しながら・・・。
同じ様に気付きや意見を積み重ねながら考えることができる。
まるで自分で考えたように、完成度の高い理論が共有できている。
学者は他人の仮説や空想に、自分の考えを積み重ねながら考えている。
学者の優れた理解力は、他人の疑問や、フッと気付くヒントにリアリティーを感じている。
そんな疑似体験ができる。
それは他人の仮説や空想という完成度の低いものや、常識をブレイクスルーしていく仮説も、自己流に消化できている。
犬や馬は訓練すると指示通り行動するようになって、自分で判断する能力を失っている。
日本人も同じ様に自分で判断する主体性に欠けている。
しかし!
誰かが気付けば良い。
誰かが、ひらめけば良い。
判断力や主体性のなさは、他力本願な思考力につながり、それは!他人の仮説や空想という完成度の低いものや、常識をブレイクスルーしていく仮説にも、とりあえず、ついていくと、そのうち分かる。
結果的に、学者のような理解ができている。
自分で考えないという欠点の、その先で、学者のような理解力をみせている。
[自分で判断できない]という欠点を突き抜けた、その向こう側で学習能力になっている。
これらはテストではなくプロファイリングするしかないのかも知れない。
想像した時と、プロファイリングした時とでは、結論は違っている。
学者は[答え]を必要としている。
「そんな答えを探していたのか。」
「そんな答えが必要だったのか。」
そう感じている時は!
学者と同じ様に、答えから考えている。
学者と同じ様に、連想ゲームをしながら考えている。
学者のような「そうか!」と感じる感情を伴っているので、リアリティーを伴っている。
日本人には、皆で考える不思議な超能力があるんじゃないの。
誰かが気付く。
誰かが[ひらめく]。
そのためにも、均一で能力差のない大勢の日本人で考える方が良い。
テストを繰り返して生徒を振り落として数を減らしたり、能力差の無い日本人に偏差値で序列化することに何の意味があるんだ?