日本の偏差値大学からイノベーションという技術革新が生まれてこないのは、型通りのテストが原因かも知れない。
「型通り」で検索すると。
一定の型のとおり。きまりきったとおり。
「―の挨拶(あいさつ)」
今日の日本に必要な才能は教科書を書き換える才能で「そんな規格外の才能を、どうやってテストするんだ。」
しかし!
意外と、そんな教科書を書き換える規格外の才能を見つけ出すマニュアルはあるのかも知れない。
タイミングの合わせ方は感覚的で[錯覚]のようなものだったり、とても教えたり、教わったりできそうもないものだけど、日本人は空気を読んで、周囲の気付きに反応して、ちゃんと理解している。
錯覚さえもマニュアル化できている。
日本ではバスは時刻通り来るので通学や通勤は時刻通りに動けば良い。
数学も同じかも知れない。
日本の数学は計算だけが一人歩きしている。
すっかりマニュアル化して、数式の意味が分からなくなっている。
数式の意味は、一本足打法のように、自分の気付きを付け足した部分が意味かも知れない。
今日の小学校にはタブレットがあって、タブレットは教科書と違って、常にアップデートされ最新化されている。
「ルイス・キャロル」で検索すると。
小児性愛者という記述がある。
こんな負の性癖は、教科書には載っていない。
しかし世間から忌み嫌われる小児性愛という性癖を知ることで、現実から遠く離れた『不思議の国』に現実逃避している心理が想像できる。
遠い架空の世界なのに、子供達はアリスを、すぐ側に感じている。不思議な距離感は、彼が小児性愛者だったからかも知れない。
「常識や倫理観で、自分は批判される。」
「もう常識や倫理観なんか、どうでもいい。」
ルイス・キャロルは数学者なのに、非科学的な妄想をしている。
非科学的な妄想で長い時間を過ごしている。
そんな数学とは関係ない、個人的な事情を知ることで「そういうことか。」と理解できる。
むしろ分かりやすい。
教室にタブレットがあって、教科書と違ってビックデータ化すると、分析は、個人的な解釈を付け足すことで。
そのうえアップデートされ、書き換えられたり。
負の性癖がヒントになったり「正解って、なんのことを言ってるんだ?」
計算力は科学かもしれないけど、空想力は科学じゃない。
やがて!
感情やタイミングの合わせ方のように、教えたり、教わったり、できそうにないものまでマニュアル化されていく。
ルイス・キャロルの感情や心理にシンクロさせると「なるほど!」「そういうことか。」と理解できて。
『不思議の国』は、大人のディズニーランドかも知れない。
TVを見てると、イタリア人は、バスをマニュアル通りに運行できない。
イタリア人は規格外の才能は育っても、管理社会が機能しない。
それとは反対に!
日本はマニュアル通りできるので高度な管理社会は機能しているけど、規格外の才能が育たない。
しかし!
教室にタブレットがあって、常にアップデートされ、変化して、そしてビックデータ化して、個人的な分析をされ。
そして!
日本人は、それに、ついていく。
タイミングの合わせ方のような[錯覚]も、ついていく。
『不思議の国』でもある、学者の空想にシンクロして、ディズニーランドのように体験できる。
「手順]で検索すると。
物事をする時の順序。段取り。
「―を踏む」
むしろ!
分析はプロファイリングのようにマニュアル化されて、考える共通の手順があることで、規格外の才能が育たないという、日本人の弱点は克服できて。
タブレットのある時代、ビックデータ化すると、個々の分析を求められ、教室では気付きのある子がヒーローになって、むしろ日本からイノベーションは生まれるようになっていくのかも知れない。
そしてタイミングの合わせ方のように、マニュアル化されていくのかも知れない。