野球中継を見てると、解説者が「このピッチャーは球持ちが良い。」と言っているけど。
それなら、どうして、それが打てないのか。
どうすれば、そんな投げ方ができるのかは分からない。
結果的に「どうして?」という疑問を感じる。
話を聞いた日本人の中に「どうして?」という共通の疑問!!共通の考える基盤が出来上がる。
そして誰かが気付けば、ヒントを共有して、常に同じレベルで理解は進んで理解に個人差は無い。
日本人は考えるプロセスを共有している。
そして周囲の変化にリアリティーを感じている。
周囲の動きが無視できない。
群れる習性の動物に似ている。
周囲の変化にリアリティーを感じる。それが日本語の強味かもしれない。
「群れる動物」で検索すると。
イワシの身体をよく見ると、頭から尾にかけて1本の線が走っていることが見て取れるだろう。これは「側線」といって人間の感覚でいえば、聴覚と触覚を併せ持った働きをしている。この側線を使ってイワシは水圧や水流の変化から前後左右上下にいる仲間の存在を感知して群れを作っている。とのこと。
テリトリーをつくって単独で生きる動物は、同じ種でもテリトリーに入ってくると戦いになってしまう。
しかし群れる習性のある動物は魚も鳥も一瞬で仲間の存在を感じ取って、決して、ぶつかることはない。群れる動物は犬のように、まるでテレパシーで会話をしているように、人と感情まで共有している。
仲間の行動に従うことが最優先で、自分の意志は二番目に降格している。
日本人の思考は現在進行形で、結論のハッキリしない話でも、とりあえず皆についていく。他力本願だけど、空気を読んで歩調を合わせているので、一瞬の変化を見逃さない。
「誰かが気付けば良い。」
自分だけ置いていかれるのが怖い。
そんな主体性の無いところに日本人のイノベーションがあるのかも知れない。
とりあえず、ついていけば、そのうち分かる。
そして日本人の感性は、そこから進化して、俳句の様に連想ゲームをしている。
ベートーヴェンは耳が聞こええなくなってから有名な曲を作曲している。
健常者には楽器の音は聞こえるので想像する必要性がないけど、ベートーヴェンには聞こえない!!もう想像するしかない。不安感のなかで楽器の音色よりも優先するものがあって!!
そんな心理状態にシンクロすると。
演奏家を透して聞くことができる。
彼はそんな[美]を求めていたのか。
それはベートーヴェンの不安感や絶望感にシンクロさせると良いのかも知れない。
サムが「僕の声が聞こえるのかい?」と尋ねると、モリーは静かにうなずく。
そして映画の最後にサムが「また会おう。」と言うと、モリーは「了解。」と答える。
もしかして!
この映画の脚本家は大切な人を亡くした経験があったのかも知れない。
そんな経験のある人にしか書けないセリフで。
脚本家の中では、彼女は、まだ生きている。
何気ないセリフだけど脚本家の寂しい思いが伝わってくる。
[愛]は群れる習性と関連性があって。
分かれことを、なによりも恐れている。

