イチローや王貞治の様に前足に特徴のある打者だと、前足でタイミングを合わせる方法が見つかるような予感がする!!
しかし!
求める答えは“錯覚”のようなものかも知れない。
そして!
人の思考力には空想やイメージ力のような非科学的ものも必要としている。
「氷が解けたら春になります。」と答えた児童は理科ではなく、国語で考えている。
国語は科学ではない。
前足でタイミングを合わせる方法は、前足で「ゆっくり感じる。」それは“錯覚”のようなもので、理科ではなく、国語で考えると良いのかも知れない。
一本足打法は純粋に日本製で、日本的なものから生まれて、間(ま)のように日本的な解釈をされ、日本で進化している。
映画も見てる人の体験が上乗せされて、より面白くなっていく。
むしろ自分の記憶を思い出して感情移入しているのかも知れない。
数学は数字と記号で、まるで暗号みたいで意味が分からない。
「7」という数字には皆が知っている意味しかなく。数学者は「7」に何かを上乗せしている。何かをイメージしている? 「数学は国語で理解すべきなのか?」
最近の研究ではレオナルドダビンチは「ADHD」だったという評価になるらしい。
[モナリザ]のように写実的な絵を描くレオナルドダビンチの空想は、脳の一部が壊れて、ブレイクスルーしていく。
ベートーヴェンは耳が聞こえなくなってから有名な曲を作曲している。彼の美意識は楽器の限界を超えている。我々は演奏家を透してベートーヴェンの美意識を聞くことができる。
ベートーヴェンは、そんな[美]を求めていたのか。
一本足打法は純粋に日本製で、日本的なものから生まれて、間(ま)のように日本的な解釈をされ、日本で進化している。
国語は科学ではない。
『王貞治物語』を書いてると、ついつい周辺にある知識を盛って『王貞治物語』を膨らませていると重要な点に気付くことができる。
それは、どうでも良い知識をヒントに変えている。
やはり!
国語は科学ではない。
学習障害や発達障害の研究が進むと、レオナルドダビンチは「ADHD」だったという考えたこともない展開をしている。
「ADHD」とブレイクスルーしていく壊れた発想は、どこかでつながっていくのかも知れない。
当然!
「ADHD」もブレイクスルーも壊れていて、科学ではない。
『ティファニーで朝食を』で検索すると。
ニューヨークの安アパートに暮らすホリーの日課は、一流宝石店ティファニーのショー・ウィンドウを見ながら、朝食のクロワッサンを食べることだった。そんなある日、彼女のアパートの隣室に、作家志望の青年ポールが越してくる。そして、ポールはたちまち、不思議な魅力をもつホリーに惹かれていく。
CSで『ティファニーで朝食を』を見ながら1960年代の時間が、ゆっくりと過ぎていく。不思議なホリー(オードリーヘップバーン)を見ながら余韻を味わっている。
思考の出口は科学でないと意味がないけど、入口は空想でも構わない。
「古池」や「蛙」に、それ以上の意味なんかないのに、なぜか余韻を感じる。
「古池」や「蛙」に「なんだろう?」と感じて、その余韻を言葉で埋めたくなってくる。
日本人は日本語という最強の武器を持っている。
「NHKの番組で、人は、ぼっとしている時に、ひらめく。」と言っている。
日本人のイノベーションに効果的なものは科学ではないのかも知れない。
『ティファニーで朝食を』を見てると、たっぷりと余韻があって、時間が“ゆっくり”と過ぎていく。
「慌てない方が良い。」