映画「天才作家の妻40年目の真実」でのグレン・クローズの「・・・。」無言で抑制された演技は[のりしろ]のように鑑賞している人と気持ちが重なり合っている。
まるで能のように「・・・。」無言の演技をしている。
ただこの映画でのグレン・クローズには、具体的に伝えたい言葉があるみたい。
その点、能や日本画の余白は、何かを伝えたいというよりも、自由に感じてくれる事を期待している。
日本画は空白が多い。
しかし、それは[のりしろ]で!
日本人は、むしろ[のりしろ]の広さで重なり合っている。
日本人は説明不足な話に言葉を付け足しながら会話をしている。
能の抑制された表現は、まるで俳句のように一度ギュッと気持ちを凝縮することで一気に感情は膨らんでいく。
ただ俳句は正しく理解してくれることを望んでいるのではなく、自由に空想してくれることを望んでいる。
能の「・・・。」沈黙は、むしろ[のりしろ]で、バトンタッチしていくために「 」空欄で聞き手と重なり合って、ホップ・ステップと聞き手に何かを気付かせるための助走をしている。
むしろ肝心な結論は言わない。
自由に感じてくれる事を期待している。
日本人は、均一で同質で、同じ反応をする事で意思疎通はとれている。
映画「天才作家の妻40年目の真実」は、妻は黙って夫について行く。
そんな時代が欧米にもあったという映画で、欧米人にとってグレン・クローズの「・・・。」沈黙は、おおよそ才能の概念にあてはまらない。
欧米人にとって映画の中で「・・・。」無言のグレン・クローズは、一人ぽっちで寂しい女性でしかない。
そんなところも、日本とは違って、日本人は「 」空欄や間(ま)を好んでいる。
日本人は言わなくても通じると思っているので、能の無言の演技を一人ぽっちで寂しいと感じたりはしない。
むしろ気持ちが通じる人と一緒にいると、何も言わなくても気持ちは大きくなって感性は増していく。
日本人は説明不足な話でも、聞き手の受信能力に依存して会話は成立している。
しかし欧米では話し手の発信力に依存して会話は成立している。
映画「天才作家の妻40年目の真実」での、女優グレン・クローズの「・・・。」無言で抑制された演技力で、この映画は成立している。