今日ではPCが家庭に何台も有る時代、PCを使えば必要な知識を得ることはできて、記憶する必要性はない。
それに記憶という釘付けにされた知識は応用が効かない。
王貞治が「前足の上げ下げは、どうすればいいのか?」と荒川コーチに聞くと、荒川コーチが「ピッチャーが足を上げれば自分も上げて、足を下ろせば自分も下ろせば良いんだ。」とのこと。
そして前足を大きく上げる動作から間延びのあるリズムが生まれて「1・2の~3」という投手のリズムとピッタリとシンクロさせることができる。
「なるほど!」
「タイミングは合うな!」
それは成功体験だったのかも知れない。
しかし、打てない。
楽器のドラムはスティックを振り上げて振り下ろすのに時間がかかってしまう。それだけ遅れてリズムが合わない!無理やり合わせようとすると、力んで!やはり、振り遅れてしまう。
スティックを振る時間を考慮して、それだけフライングをしないとリズムは合わない
前足を上げて間(ま)をつくることで、投手はボールを長く持って投げるのでリズムが合う。
それは「うん!合うな。」という成功体験のはずが!しかし、打てない。
うまくいくはずなのに、打てない!
うまくいかなくて、王貞治は、やがてそんな話も忘れてしまった。
偶然生まれて、そこから応用編になると答えが変わってしまう。
やはり何度か、その肝心なリズムがずれるというピントの外れたことをして、一つの結論に行き着いているのかも知れない。
日本の教育の弱点は模範解答しか認めない。
しかし模範解答は現状維持でしかない。
現実は非常識でピントの外れたやり方から偶然生まれている。
そして応用編では、全てを組み立て直さないといけない。
結果的に、想像だにしない展開をしている。
そんな終始ピントの外れたものは説明できなくて「どうして一本足でホームランが打てるんだ?」と、飲み込みが悪くなってしまう。
飲み込めなくて堂々巡りをしている。
そんな時に[空想]は風船の様に膨らんで浮遊し始める。
あいまいな日本語で、クラッチを踏んで常識から切り離していると、TVで何度も聞いた「1・2の~3」というリズム感と一体化している。
そのリズムにはタイミングを合わせる間延びという減速感に、弾みをつける加速感が加わって、それらを[一対]のものとして日本人は消化できる。
ネットで久しぶりにレイコニフシンガーズを聴いてると、彼らの演奏もまた間延びに特長があって、間延びがあると!次の瞬間、聴いている人の中でリズムは跳ねる。
むしろリズムは、間延びのある演奏を聴いている人の中で生まれている。
バッティングも同じかも知れない。
間延びから!次の瞬間、弾むようなリズムが生まれてくる。
日本人は[あいまい]で「考えておきましょう。」はyesではなくnoで言葉の意味を逆さまに使っても、ちゃんと気持ちは伝わっている。
日本語は揺れ幅が大きくてyesからnoまで変化している。
もしもPCに記憶した情報が変化すれば、それは故障している。
一本足打法の間延びの有るリズムには減速感もあるし加速感もある。減速感でタイミングを合わせて、加速感で弾みをつけるへと、幅の広い考え方に日本語は対応できる。
ぜんざいは砂糖だけでは食べられなくて塩も必要。ぜんざいには砂糖と塩を入れている。
日本人は、そんな矛盾を[一対]の概念として自然に消化できる。
日本人の[あいまいな]表現は日常的で、それは欠点かも知れないけど、しかし絞り込んで確定する英語とは正反対に、日本語は[一対]の概念で、広がっていく考えに適応力をみせる。
正解の有る記憶力はテストが可能でも、変化してしまう学習能力にテストは有り得ない。
そもそも正解が一つしかないテストでは、[あいまい]な言い方は欠点としか感じられない。
2020年から大学入試が記述式に変わると、正解のある過去から、まだ正解の分からない未来を向く事ができて、生徒は何かに気付いて!新しい発見をしたことを既存の言葉で表現することができるし、広がって矛盾してしまう考えも[一対]の概念で消化できる!
日本語は、あらゆる対応力を発揮して、日本語で考える優位性を感じることになるのかも知れない。