人がものを考える時、順番があって、数学では最初に空想という広がりがあって、最後に数式というマニュアル化で終息している。
マニュアル化で、誰でも簡単に答えが出せる!それは知恵なのかも知れない。
日本では日本刀の精神性も、生け花の美意識もマニュアルのなかで伝承されている。
生け花にとってマニュアルは美意識を磨くための長い階段で、数式のように簡単に答えが出せるものではない。
日本人にとっての[生け花]は固定概念が壊れて空想が広がっていくもので、答えは一つではない。
そして数式というマニュアルも、そんな階段を一段ずつ上っていくことで意味が理解できて、「数学は暗記だ!」と答えだけでは意味が分からず、役には立たない。
今の数学はマニュアル化した最終段階だけで、何を計算してるのか?何処で使うのか?必要性も感じられず役に立たない。
江戸時代、庶民が高等数学を解いていたという。
それは[生け花]のように長い階段を一段ずつ上がっていくプロセスを仲間と共有して、結構楽しかったのかも知れない。
江戸時代には数学のテストなどなく、皆で長い階段を上っていく、仲間と一緒に考える数学だったのかも知れない。
能力の概念は個人差や個人技で、他人と、どれほど違うか!差が大きい方が優秀という価値観だけど、日本人は均一で差がないことで脳をシンクロさせて皆で考えて効果をあげている。
日本人にテストをしても意味がない。
そして、なによりも数学は[楽しい]ということが最も
大切なことかも知れない。
群れる動物は危険を感じると、危機感は瞬時に仲間に
伝わっていく。
隣の人が緊張してると自分まで緊張してしまうのに、
それとは反対に緊張している人をリラックスさせるのは困難で難しい。
日本人は主体性がなく、周囲に影響されやすい。
しかし、そんな流されやすさは「悪い結果しかでない!」とは限らない。
数学は[楽しい]ということが最も大切なことかも知れない。
数字と記号だけでは、意味が分からない。
数学者は、数字と記号に何かを感じている。
日本人は、そんな高揚感に感化され、数学者の[ひらめき]を一瞬の変化として感じて、流されやすさは欠点とは限らない。
緊張している人をリラックスさせるのは難しいけど、日本人は仲間といると気持ちは大きくなっていく。
江戸時代、仲間と考える数学は楽しかったのかも知れない。
日本の新幹線は時刻通りに運行され、宅配便も指定した時間内に配達されている。それらはマニュアル通りに働く日本人だからこそで、外国人には、まねができない。
日本人は茶道のように同じ動作を繰り返すと、心は安らぐのかも知れない。
[生け花]で伝承したいものは美意識で、茶道のように同じ動作を繰り返すことではなく、[生け花]は組み立て直す緊張感が心地良いのかもしれない。
古い俳句でも、新鮮な発見があって楽しい。
俳句には、読む人に[発見]させる!気付かせる仕掛けがあるのかも知れない。
数学もマニュアル化しているけど、生徒に[発見]させる!気付かせる仕掛けが必要。
それは[生け花]のように、急がず!手間暇かけるマニュアルなら習得できるはず。