以前イスラエル人学生によるオーケストラの演奏を聴いて「ユダヤ人はイメージ力が優れているんだなぁ。」と、そんな印象を受けたことがある。
長島茂雄はポジティブな性格とは正反対に、ユダヤ人には被害者意識のようなネガティブで暗いものを感じる。
ユダヤ人は、余計なものを忌み嫌って、冷淡に切り捨てることでイメージはハッキリしてくるのかも知れない。
否定的で、消去法のような思考力を感じる。
NHKTVで「ピアノはハンマーが弦をたたくと、他の弦も共鳴して、それが味わいの深い音になっていく。」とのこと。
ユダヤ人の演奏は、人と共鳴することもなく冷淡で「悪魔の血が一滴流れている。」という印象を受ける。
そこには開拓者のように独善的で自分の意思に忠実に行動する、そして妥協性のなさも感じる。
最近は日本も右傾化して、隣国を疑ると気付くことが多い。
「アイツが犯人だ!」という思い込みで見ると、そう見える。
気付くためには、そんな偏見でもある先入観が必要で、疑う気持ちがないと気付かないことが多い。
ユダヤ人の発明・発見する能力は、そこには敵対感情があって「アイツが犯人だ!」という強烈な先入観で見ているので、気付くのかも知れない。
それとは正反対に、日本人は[一対]のものが揃って完成する[真理は二つ]と言ってもいい考え方をしている。
プロ野球の解説では、中途半端で説明不足な会話が飛び交って、益々方向が定まらなく浮遊し始める。
そんな状態に意味があるような気がする。
欧米人のように、いきなり「YESかNOをハッキリ決めろ!」とは言わない。
人は肯定と否定で考えている。
そのためにも揺れ幅が必要。
考える時間も必要。
頭の中では、多くの知識や思いが方向が定まらないまま浮遊している状態が長く続いている。
それが何なのかハッキリとイメージできない状態が続いている。
しかし、そこには考える時間も!考える揺れ幅も十分にあって!
とりあえず受け入れる日本人の思考力に意味があるような気がする。
考える幅が広がることで、いろんな考えを比較したり、その中から好きなのを選んだり、二番手にとっては簡単に答えが出せるようになっていく。
いろんな意見の中から好きなものを選ぶことには、それほど能力を必要としない。
とりあえず受け入れる!
長島茂雄のポジティブな[プラス思考]に、考えを付け足していく、もう一つの[プラス思考]で日本人は考えている。
そんなポジティブな気持ちでが重要な日本人に対して、ユダヤ人は否定的な感情がこみ上げてきて、怒りをぶつけるのに言葉が必要になってくる。才能が必要になってくる。
しかし頭の中では、ひたすら怒りを正当化しているのかも知れない。
ユダヤ人の演奏は、人と共鳴することもなく冷淡で「悪魔の血が一滴流れている。」という印象を受ける。
そこには開拓者のように独善的で自分の意思に忠実に行動する、そして妥協性のなさも感じる。
ユダヤ人の演奏を聞くと、ハッキリとしたイメージ力には排他的な悪魔性を感じる。