早朝のNHKラジオで自閉症のなかに理数系に優れた才能を示す例があって、発達障害のある人は能力の凹凸が激しくて、もっと研究が進めば評価の仕方も変わるし、彼らとの接し方も変わるとのこと。
ずっと気になっていたことで。
有名な画家は精神を病んで、むしろ欠点に共通点があって、しかしその才能は多様でピカソの絵やゴッホの絵は個性的で共通点は、あまりない。
そしてピカソの絵は壊れているだけで、その絵を鑑賞する人の中で芸術になっている。
「どっちが才能なんだろう?」
日本には俳句の文化があって。
俳句は、それを読む人の中で情感は膨らんで、古い俳句でも新鮮なひらめきがある。
たった五・七・五でも「1」を見て「10」を知る!日本人の理解力を象徴している。
それはピカソやゴッホの絵でも同じで、鑑賞する人の中で芸術になっている。
鑑賞する人の中で完成している。
芸術の価値は、それを見ている人の側から生まれている。
そしてそんな才能を持った人なら大勢いる。
壊れているピカソの絵と、それを見て芸術性を感じている人の「どっちが才能なんだろう?」
ピカソの絵は模範解答には程遠い。
「○」からは、もう何も生まれてこない。むしろ「×」から生まれている。
人は[破壊と創造]のように、何度かUターンしながら考えて、簡単には結論はでない。
空想という広がりがあって、新しい発想が生まれる。
空想という広い空間があって、いろんな考えが共存できる。
正解という、一つしか認めない考え方は、あまりにも狭い。
常識の問題点は「狭すぎる!」
しかし空想は、あまりにも広げ過ぎて!そして、ピカソの絵は壊れ過ぎている。
才能とは、非科学的な空想力だったり!壊れていたり!
その先、優秀な二番手によって、淘汰されたり、組み立て直す必要があって、自力だけでは才能になれない。
ピカソの絵や[空想力]は非科学的で「○×」でいえば、むしろ「×」の方で「教科書は正しい!ピカソの絵を暗記しなさい。」という教え方は間違っている。
そして芸術は、その絵を鑑賞している人が「1」を見て「10」を知る!
ピカソの絵は、それを鑑賞している人の中で芸術になっている。
ピカソの絵は、その絵を見て芸術と感じる人を必要としている。
両者が出会って、芸術として成立している。
松村邦洋のような歴史好きは話を膨らませた部分が多くて、彼の話を聞いてると歴史を創作している。
話を何倍にも膨らませている松村邦洋と、知識を大量に暗記している東大生の「どっちが優秀なんだろう?」
