画家でも音楽家でも、古典派とかロマン派のように同じ地域・同じ時代に同じ様な才能が生まれている。
やはり才能は、お互いに影響し合って才能になるのかも知れない。
人の思考力は、変化しない記憶力と[破壊と創造]のように大きく変化する思考力は矛盾している。
そして[破壊と創造]自体も矛盾している。
人の思考力は、そんな矛盾した考えを積み重ねて出来上がっている。
ピカソの絵は、壊れている。
そんな壊れた絵が、鑑賞する多くの人の中では芸術になっている。
壊れた絵が、芸術になる?
絵の価値は、常識を超えている。
ピカソは固定概念を壊して、別の人の中で何かが生まれている。
しかもピカソの絵は、模範解答ではない。
ピカソの絵に点数をつけると何点だろう?
NHKラジオのDJ日本史で松村邦洋が日本史を熱く語っている。
歴史上の人物は、誰も会ったことはなく、個人的な感想を自由に語れる。
むしろ松村邦洋のような歴史好きは話を膨らませた部分が多くて、彼の話を聞いてると歴史を創作している。
しかし理解とは、そんなものかも知れない。
模範解答には程遠いピカソの絵を見て、多くの人は芸術性を感じている。
松村邦洋に歴史を語らせた方が、リアリティーのない話し方をする東大生よりも面白い!
そして東大生の「面白くない!」話からは想像は膨らまず、何の影響もない。
むしろ松村邦洋の熱い思いに、ほだされて歴史に興味をもつことで頭に入って、正解という無機質な単語には興味が持てず頭に入らない。
理解力とは、自分勝手に話を膨らませることで正解のようなものではなく!
しかもそんな個人の主観的な意見を、空想の部分は空想として、ちゃんと理解して、そのまま鵜呑みにはしない。
人は、知識を好奇心に変換して記憶しているのかも知れない。
知識は、好奇心を記憶するための空箱のようなもので、意味の希薄な空箱だけでは、どうしても頭に入らない。
しかし知識という空箱に意味を込めると、楽に頭に入ってくる。
日本の教育は、正解という空箱を記憶させようとする。
しかし意味の希薄な空箱では、どうしても頭に入ってこない。
正解という空箱に、好奇心をいっぱい詰め込むことができていない。
むしろ正解よりも「面白い!」と感じるのは、[不思議の国]のようなフィクションだったり!
そして好奇心をいっぱい詰め込むことができるのは[空想]だったり、仮説だったり!
それらは正解とは正反対なものでテストには、なじまない。
高得点の方が優秀という考えは破綻している。
ピカソの抽象画は、それを鑑賞している人の中で芸術になっている。
松村邦洋の空想をいっぱい詰め込んだ話の方が、東大生のリアリティーのない空箱のような話よりも頭に入ってくる
