アラン・チューニング 6 | エイジのブログ

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スマホの予測入力使用頻度の高い文字を次に表示しながら文章を作っていて、コンピューターの学習能力と言っても、肝心な文法は利用者の文章作成力に頼って、それを補う限定的な能力しかない。


パソコンでも、まだまだ自己で完結できる能力はない。


やはり!スマホには文法は理解できていない。


文法で人の思考回路が見えてくる。


英語は、まず結論があって、それからその説明をしている。


人の思考力も、まず結論に「これだ!」という発見があって、後は知り得る知識を総動員して、その結論を正当化する!


英語の文法は、人が考える段取り通りに出来上がっている。


英語の文法で、人の思考回路が見えてくる。


法則で検索すると、守らなければいけない決まり。規則。と書いてある。


バラバラで意思疎通が難しい欧米人には、原理・原則には必ずそうなるという必然性や、それは守るべき決まりで、欧米人にとって原理・原則はありがたいものなのかも知れない。


欧米人には原理・原則という骨組みが必要なのかも知れない。


そして会話が成立するためには、必ずそうなる!という共通の法則のようなものがあると便利に会話ができる。


アラン・チューリングはそんな共通の法則をイメージして、偶然ドイツ人と同じことを考えてしまうのは、大いにあり得ることで!欧米人にとって数学の法則は意思疎通がとれる、ありがたいものなのかも知れない。


しかし日本人は「これだ!」という

ひらめく瞬間に反応して、不変の原理・原則が苦手で[不変]なものは見えないのかも知れない。


動物でも動いている物は見えるけど、獲物が動きを止めてしまうと認識できなくなってしまう。


ただ人間の場合は動物よりも進化して、人の心の変化を感じることができるけど、表情を隠すと人の心が読めなくなってしまう。


特に日本人は人の心の変化を、場の空気を読んで言わなくても、ちゃんと理解している。

理論よりも情感で理解している。


「日本人は右脳で考えて、欧米人は左脳で考えるのか?」



やはり日本人の数学は不変の原理・原則ではなく、連想ゲームで意外な展開をしたり、話を膨らませると日本人は覚醒して、仲間についていこうとする群れるDNAなのかも知れない。


納得できる説明がないと理解できない欧米人と比べて、とりあえずついていく日本人は説明は後付けでも良いみたい。


才能とは個性的で、しかも一方方向に傾いていたり!

奇人変人だったり!

空想は非科学的な世界まで広がって、彼らにとって常識は、どうでもいいのかも知れない。

とても才能は説明できるものではない。

才能は、まだ論理的に説明できない初期の段階!

しかし才能は[ひらめき]や面白い空想に満ちている。

日本人は、こんな[ひらめき]や面白い空想という心理的な高揚感にDNAは反応して、ついていく。


説明は後付けでも良い!


未完成で壊れているピカソやゴッホの絵は、それを鑑賞している人の中で芸術になっている。


特に日本の文化は俳句や日本画のように説明不足でも、それは鑑賞する日本人を信じて疑わない信頼感を感じる。


そして日本語は[ひらめき]や連想を誘って、日本人はその先を見つめている。

日本人は右脳で場の空気を読んで、アラン・チューリングは左脳で考えていたのかも知れない。