人は、自分で判断しなくなる時があって、夫は家事を妻に依存すると自分の服が何処にあるのか分からない、分かろうともしない、要するに何も考えなくなってしまう。
日本は教科書を[正しい]と教える。そしてそれを模範解答に格上げしている。
教科書をここまで持ち上げると、教科書を絶対視して、作り直して再利用するという発想は生まれてこない。
むしろ学者の発想は、常識の境界線を超えている!そして数学は、何でもかんでも数値化して!無理やりな計算をしている。
教科書は本来、疑問だらけのはず!
生徒は、学者の非科学的な発想についていけない。
そんな常識をブレイクスルーしている教科書は「分からない!」そんな、どうしても理解できない挫折感を感じるはず。
夫は妻に家事を任せると、自分の服が何処にあるのか分からなくなってしまう。人は誰かに依存すると何も考えなくなってしまう。
日本の教育は教科書に依存して、何も考えなくなっている。
教室では、教科書は[正しい]と教えて終了している。
そして教科書を鵜呑みにする生徒が東大にいって、「分からない?」と感じる生徒は落ちこぼれてしまう。
そして教科書という既存の常識をブレイクスルーできなくなっている。
光悦の茶碗は未完成のままで、それは既成概念の壊し方が絶妙で!茶碗を鑑賞している人は「どう解釈すれば良いんだ?」と思いは堂々巡りし始める。
それはルノアールの絵も同じで写実的な表現は未完成!
しかし、それを見ている人の美意識が引き出されてくる。そして鑑賞している人の中で完成している。
「学者の発想は、常識を超えている!」そして「数学は、何でもかんでも数値化する!」と無理やりな計算をしている。
本来、教科書は疑問だらけのはず!
生徒は「それらは、どうして正当化できるんだ?」と疑問に感じて、生徒は学者の非科学的な発想についていけない。
光悦の茶碗は未完成のままで、既成概念の壊し方は絶妙で、それを見て
いる人の美意識を引き出して、鑑賞している人の中で完成している。
能や俳句そして日本画と、日本の文化は表現が少なく説明不足なものが多い。
能や俳句そして日本画を楽しむ日本人には、正解は必要ないのかも知れない。
日本人は、子犬や未成熟なアイドルが好きで自分で育てたがる。
日本人は未完成を好む!
不思議な価値観には可能性を感じる。
数学は答えしか見ていない。
そうではなく!
未完成で説明不足でも良いのは日本だけで!
光悦の茶碗は未完成で説明はないけど、鑑賞している人の美意識を引き出している。
数学はテストよりも、光悦の茶碗を見せて「何を感じる?」と尋ねた方が、数学を理解する能力は見えてくるのかも知れない。
「数式は未完成で説明不足。」
むしろ、その方が良い!
そして、その先の完成写真をイメージするのが応用力!
「数式を作り直して再利用しなさい。」そんな[正解のない]教え方ができるのは日本だけかも知れない。
