「数学は長島茂雄だ!」
野球理論は、ほとんどが日本で生まれて日本人好みに進化した日本製でアメリカからきた野球理論は思い浮かばない。
野球理論は[王・長島]がテーマになりやすい。
[王・長島]が話題になって彼らの話を膨らませているうちに野球理論も生まれてきている。
もしも日本の歴史の中で[王・長島]ではなく、別の人物だったらプラス思考という考え方も生まれてくることもなく、日本人はそんな指導方法はしてないのかも知れない。
たまたまそんな方向に進んだわけで、もしも[王・長島]ではなく別の人物が話題になっていたら、おそらく別の指導法に発展している。
体育会系のスパルタは長く続いてしまった。
それは失敗すると「精神的な弱さだ!」と叱責して、全人格を否定する。
結局「お前は何もできない人間だ。」と言ってイメージ力を壊すだけで益々精神的に弱い選手にしてしまう。
そんな行き詰まり感の中で、日本人は誰言うとなく長嶋茂雄に[プラス思考][イメージ力]という答えを見出し、長島茂男もそれを感じて新しい長島茂男を演じて人気は復活している。
戦後の日本人は自虐的で、自分をほめることができなかった。
しかし今日は180度変化して自分をほめたがっている。
そんな日本の歴史の中で[プラス思考][イメージ力]という自分をほめてくれるキーワードに必要性があって!そんな答えが必要で、それを演じることができるのは長島茂男しかいない!
時代が長島茂男を批判したり、それとは反対に人気が復活したり!
結局、その人の価値は世間によって決められて、本人がどう努力してもどうにもならない。
そんな歴史の中で、日本人は新しい価値を創造している。
数学も、その国のその時代にそんな答えが必要で、いろんな数学は創造されていくもので、その国の知力を象徴している。
数学は、その国の歴史の中で創作されて、その国しか理解できない。
しかし多くの数式は、日本と歴史を共有していないので日本人には意味が分からない。
数学は、自国から生まれたものしか理解することも、進化させることもできない。
しかし欧米人には個人的な空想や仮説のような、あいまいで説明不足な理論は通じない。
数学の考え方は数学者個人の中にあって、そんな個人的な空想や仮説は人と共有することはできず、結局他人には数式の意味は分からない。
欧米人の限界をみせている。
日本で生まれた和算は欧米に見劣りしないものらしい。
数学は、数字や記号がもつ本来の意味以上に膨らんだ部分に数式の意味が隠れている。
まるで俳句のように、一度ギュッと圧縮されたものが一気に膨らんでいく空想には「ひらめき」を感じて、日本人は数式にリアリティーを感じることができるはず。
そして生活感を感じるものなら分かりやすく、同じ方向を向いて同じ方向に進む日本人なら、その先の連想も共有しながら皆で考え進化していくことができる。
日本人にとって日本で生まれて、日本人好みに進化した数学は分かりやすく、もっと使いこなせるはず。
むしろ日本人は正確さが必要な暗算のような計算力も、変化する数学的な思考のどちらにもむいている。
日本人は長島茂雄から新しい価値を創造したように、日本で生まれて日本で進化した数学なら、日本の知力を発揮できるはず。