今までを振り返ってみてふと思うことがある。
それは、生きる上での選択権は、果たして自分にあったのだろうか?
そして、これからもあるのだろうか?という疑問だ。
もっと根源的に考えていけば、自分自身の生死をコントロールできていない。
根源にある生も死も自分の力ではどうにもならないのだ。
にもかかわらず、自分の思いや意思のみで仕事や縁も決めていたと言えるのだろうか?
そして、自分の意識によってすべての現実は創られていくものなのだろうか?
僕個人で言えば、今、自分が置かれている状況は、なるべくしてなっていると感じることがある。
自分の意思や思いを超えた何モノかによって呼ばれてそこにいるような感覚を持っている。
だから、そこで簡単に善し悪しといった判断などできるものではないと考えている。
やりたいことをやろうとか、いろいろなことに挑戦しようと人は言う。
しかし、なぜそれをやりたいのか?なぜそれに挑戦したいのか?深く考えたとき。
「なぜ」の根源的なところに明確に答えられる人などいるのだろうか?
個人主義的思想が強い今の世の中では、個人の意思が第一とされているような傾向がある。
しかし、公と個は別々のものではなく、本来は1つのはずだ。
個に執着することなく、流れを大切にする生き方が、本来の日本人らしい生き方のように感じている。
端的に言えば、大きなものに求められていく生き方、天の呼びかけに応じていく生き方ということになるのだろう。
夢が実現できるかどうか?で人生の価値は決まるものではないと僕は考えている。
自己実現というものを超えたより大きなものと自分の波長を合わせるような生き方をしているのかどうか?
ここで、その価値は決まるのではないだろうか?
自分の人生、こんなはずじゃないとか、自分の置かれている立場は不遇だとか。
逆に、自分は成功者だ、出世頭だ、有名人だとか。
前者の自分はダメだから後者のような存在になろうとしても、個人という枠を超えられなければ、天命にも天職にも一生ありつけないだろう。
個に執着し、公を意識しないところでは、天の意思と波長を合わすことなど不可能なのだから。
世間の価値基準、評価といったものを超越したところに、生きていく本当の価値があるのではないだろうか?
それを落ち処と僕は呼んでいる。
今の自分はなるべくしてなっている。それが天の采配なのだから。
自分に求められる天の声は何か?それが、目の前の仕事だったり、役目だったりするのだろう。
そして、そこに優劣はない。
心学商売繁盛塾
2016年8月22日(月)
答えのない世界で何を問いつづけるのか?
2016年9月12日(月)