今回は押井守(以下押井監督)が関わったあるアニメ作品2作に対して、鑑賞後に寄せられたコメントの内容に対する俺の苦言である
(勿論、コメント主がその作品をどう感じたか、どう感想を伝えたいかの制約はないのでどうコメントするかは全くの自由、それを踏まえて俺がそれらを読んでどう感じたかを残す、今回のブログは備忘録である)
辛辣なコメントの中でも中でも特に目立つのは「登場するキャラクターに人間性、魅力が感じられない」という意見
次に「メッセージが伝わらない、何をいいたいかわからない」というのも決まり文句のように並んでいる
それはまだいいのだが、更には「万人に受ける娯楽作品ではない」とか、どういう経緯と期待を持ってその2作を観ることになったのか、俺が全く理解に苦しむ意見もある
娯楽に浸りたいならまず最初に押井監督作品をハズすべきだ
思うに、コメント主は押井監督作品を鑑賞する前提として、劇中の登場人物が総じて「うる星」の諸星あたるとか「パトレイバー」の特車2課の隊員のようなものを期待しているらしい
押井監督作品の本質はそうしたキャラ立ちの設定に左右されるチープなものではないし、そもそも押井監督が意識して作品に登場させるのは、葛藤することとは無縁の人間像であることは、とっくに公言されている
だから、パトレイバーTV版の放送直後(1990年)ならともかく、俺的押井監督作品の最高峰「イノセンス」が公開(2004年)された後でさえそんなコメントを書く輩がいるのは驚きだ
登場人物の心情や言動から作品理解へのヒントが得られないのは、押井作品の大きな特徴かもしれない
もう一つ、押井作品が分かりづらいという印象を多くの人に与えてしまう理由となるのが、押井監督によれば映画は「終わりを決めてから全体の構成を練る」ものであり、漫画映画にラストに観る者の感動を惹起するストーリーは必ずしも必要ではないという立ち位置だろう
このポイントを理解するにあたり、比較例として分かりやすいのが宮崎駿監督作品となる
つまり話の終盤に辻褄合わせとなる唐突な事件(多くはスペクタクル的な要素)を用意しつつ、実はそれでストーリー全体の落としどころをどさくさ紛れ的に流して終わらせる怠惰を、緻密に書き込まれた作画展開を武器に、視聴者を感動させて無かったことにするような作品作りと押井監督作品は対極にある
押井監督が肝として静かに描く作品のラストは、俺が思うに作品全体を貫くテーマに沿った「台詞」を登場人物(主役以外の場合もある)の誰かに語らせるというパターンが多い印象だが、俺はそれでストーリーにけりがつくなら十分だと思うのだ
押井作品鑑賞後に不愉快になる原因は作品の内容にあるのではなく、己の不勉強や感性との不一致であることに気づかなければいけない、と今回あらためて思った次第である