前篇からはや3か月、あれやこれやと悩んだ末、ようやく納得できる内容が書けたので、晴れてupさせていただく

 

本題に入る前に、登場人物のプロフィールについて整理しておく

 

後藤喜一 警視庁特車二課第二小隊長

南雲しのぶ 警視庁特車二課第一小隊長 女性

柘植行人 元陸上自衛隊の二等陸佐、1999年、東南アジア某国へのPKO派遣時の体験(政治的理由から敵ゲリラへの攻撃許可が下りず、結果的に彼が率いた部隊が犠牲になったこと)から、戦争状態の擬似体験を首都・東京に創り出すことで、まやかしの「平和」を維持する日本社会の矛盾を暴き出そうとしたテロリスト

 

後藤の説明によれば、柘植の目的は「平和ボケした日本」に危機を実感させることにあった

東京という限定された空間に「戦争という時間を演出」し、社会に現実を突きつける、それが柘植の構想である

その手段としての肝は、最小の火力の行使による「分断と混乱」の演出だった、すなわち自衛隊内部に反乱分子がいると思わせ、国内に疑心暗鬼の状態を生み出すことで、社会そのものを不安定化させる計画である

この構図を踏まえたうえで重要になったのが、南雲に送られたルカの福音書の形式をとったメッセージである

このメッセージは表面的には犯行予告であり、後の最終局面では事態打開策として暗号解読のコードとしても機能する

すなわちこれは、最後通告、犯行宣言および収束手段を兼ねた内容になっているわけだ

重要なのは、この多重の役割が偶然ではなく、あらかじめ一つの構造として仕込まれている点である

福音書の役割は「警告」であり、しかもそれは外部の敵ではなく、「身内の中から」生じる敵への警戒だ

本作において柘植が作り出そうとした状況もまた同じ構造を持つ

敵は外にいるのではなく、内部に潜んでいるかもしれないという疑念、その疑念が社会を分断し、機能不全に陥らせる

さらにこのメッセージは、「予言」として機能している

事前に与えられ、理解されず、しかし事後にはそれ自体が事態収束の鍵として回収される

つまりそれは単なる暗号ではなく、「最初から結末までを内包したテキスト」であり、柘植の計画そのものと同じく、開始・進行・収束を一体化させた構造を持っている。

 

ここで重要なのは、その「収束」が柘植自身によって完結されない点である

暗号は警察側に解かれることを前提としており、南雲を含む“他者”によって回収されることで初めて計画は閉じる

すなわち柘植は、自ら状況を作り出しながら、その終わらせ方については最初から他者に委ねている

南雲はそれを受け取りながら真意を理解できなかったが、それについて柘植は「気づいたときは遅すぎる」としたり顔で語る

この構造自体が、物語全体の進行と一致している

すなわちこの事件は「防げたかもしれないが、結果的には防げないもの」として描かれている

 

この不可逆性は、日本社会の在り方とも重なる

常に事後対応に追われ、本質的には手遅れでしか動けない

その象徴として、原作漫画版では「警察ってのはカゼ薬みたいなもんでな、… おれたちの仕事は本質的にはいつも手おくれなんだ」という台詞を後藤に語らせている

以上を踏まえると、ルカ福音書の引用が担っている役割は明確になる

それは「内側からの崩壊への警告」と「気づいた時には止められない予言性」を同時に示すことで、柘植の計画――すなわち疑心暗鬼による分断と、不可避的に進行する“戦争という時間”――を象徴的に補強することである

そして同時にそれは、収束手段までもあらかじめ内包しながら、その回収を他者に委ねることで、すべてが後追いでしか終息し得ないという構造そのものを可視化している

 

 

 

まず、最初に今の諦観を吐露すると、大概の「世の中」は詰んでいるし、そこに未来はない

そして最近以下のような哀惜も感じている

表立って人を評価をすることも、人から評価されることも、そもそも嫌だ

また人が人を、もしくは何かを評価しているのを見聞きするのも、いい加減嫌になってしまった

1番駄目なのは、所謂反射神経的に浅はかな批評に強制的に付き合わなければならないこと、あれに程々疲れ切ってしまった

これらを断ち切り心の安寧を得るにはテレビ、ネットを断ち、代わりの情報入手手段として、「書評」に頼らず小説か学術系の書籍を読むとか、目にする最低の広告を頼りに映画を観るしかないのではないか

それでもいいのかなと、利害を天秤にかけて最近は思う

少し前から意識してSNSから少し距離をとることにしており、このアメブロもコメントオフにして人からの干渉と無縁なのもその一環による

考えをまとめる方法としてアメブロ更新だけは残し、その際、人の書き込みには極力反応しないようにする

目と耳を塞ぎ世間知らずになるかもしれないが、例え独りよがりでも、外部に"毒されない"持論を常に構えることができる

感覚的なことからたどり着いたが、この境地を冷静に分析すると、それが今時の処世術として十分有効だと思えるのだ

お断りするが、これは決して自分を変えるではない

祝日スペシャル 大昔の下書きの蔵出しにお付き合い頂こう

 

帰宅時の電車内で、途中駅から何かが匂っていることに気がついた
自分以外の"乗客"の入れ替わりがそのきっかけだとすると、目の届くところに臭いの犯人がいるはずなのだ
そう思って目線を動かしておやっ?て思った
途中乗車の乗客は女子しかいなかったからである

実は俺は生まれつき有機系の匂いには殊更敏感な体質で、それこそ犬のように鼻が利く
習慣や体質のことを偏見をもってとやかく言いたくはないのだが、こういうときは己の体質が恨めしい

しょうもないその体質が好みと連動して匂いフェチの方向へ振られたらどんなに楽しいだろって妄想が浮かんでは消える
 

饐えた臭いを振り撒く女子 大、大、大好物ですって
あなたの"セールスポイント"、貪欲にフォローできるのになぁ

って、そんなフェチ享楽の夢は綺麗好きな俺という現実には勝てはしないが


DO YOU SUPPOSE THAT I COME TO BRING PEACE TO THE WORLD? NO, NOT PEACE, BUT DIVISION.
FROM NOW ON A FAMILY OF FIVE WILL BE DEVIDED, THREE AGAINST TWO AND TWO AGAINST THREE.
FATHERS WILL BE AGAINST THEIR SONS, AND SONS AGAINST THEIR FATHERS; MOTHERS WILL BE AGAINST THEIR DAUGHTERS, AND DAUGHTERS AGAINST THEIR MOTHERS; MOTHERS-IN-LAW WILL BE AGAINST THEIR DAUGHTERS-IN-LAW, AND DAUGHTERS-IN-LAW AGAINST THEIR MOTHERS-IN-LAW.
 
突然のネタとなるが、アニメ「機動警察パトレイバー」の新作シリーズ"EZY"が来月5月から公開予定であり、それに伴うプロモーション企画として、先日までyoutubeで過去の作品が日替わりで放送中だった
その中で押井守が監督した劇場版2作も配信された
この「劇パト」版のうち、93年公開の第2作は「戦争」をテーマとしたリアリティを追求した作品として、あまり売れなかったが当時一部ファンの間で話題となり、公開から30年以上経った現在でもテーマや描かれた世界の先見性など、アニメの枠に収まらない名作として位置付けられている
当然俺もこの映画の大ファンで、過去に数え切れないほど視聴してきたが、数ヶ月前の劇場においての4Kリマスター版のリバイバル上映にまで足を運んだほど、未だにお熱が覚めていない
 
さて冒頭の英文はこの作品に登場するある目的を持った「メッセージ」である
一応断っておくと、上記は新訳聖書 ルカによる福音書12章51-53節部分の引用であるが、この福音書は元々ギリシャ語で書かれたものだから"英訳文"は沢山あって表現がそれぞれ微妙に違ったりする
今回は劇場版2のLDのスリーブに印刷されている情報を転載したので、俺がどこかの聖書サイトを見てコピーしたものではなく劇中に登場した原文の正確な表記である
 
これに対する劇中に登場するキャラクター"南雲しのぶ警部"による訳文語りの台本セリフが以下だ
 
我地に平和を与えんために来たと思うなかれ。
我汝等に告ぐ、然らず、むしろ争いなり。
今から後一家に5人あらば3人は2人に、
2人は3人に分かれて争わん。
父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に
 
 
 
今回英文原文を初めてちゃんと見てあらためて思いを強めたが上記訳文の「3人は2人に、2人は3人に分かれて争わん」の箇所は誤解を招きやすい訳な気がしてならない(これは余談だが原文にある"嫁と姑の下り"がばっさりカットされているという個人的に衝撃的事実は、今回このネタでブログを書こうと原文の調べ物を始めるまで全く知らなかった)
この部分の趣旨は「5人家族であれば、3人対2人に(その組み合わせは別にして)分裂する」ということだ
ここでいう組み合わせというのは、父母対子供たちとか、父と息子2人対母娘などの人員構成の例ではないし、そもそも数の問題が本旨ではなく、訳文で「我」を名乗る神様の有り難い教えを守れるかどうかで、より広義ではキリスト教信者か否かで、双方の対立・分断が起こるから気をつけろ、ということを指しているのである
 
ところが原文を全く意識してこなかったのが災いして、この訳文から俺は「3人→2人になる、2人→3人になる」と物理的な状況の変化が起こるとばかり思ってたので、一体これは何を象徴しているのだろうとずっと思い悩んできた
混乱をさらに複雑にしたのがその後の「父は子に…」の訳文で、全段の"数字遊び"のミスリードが頭から離れない俺にとってここも必要以上に真意を掘り下げて考えてしまい、結論の出ない悩みのタネだった
で原因となっているのは原文で"AGAINST"という単語が導く「対比」を表現するのに訳文で使われている助詞「は」の使い方ということになるとようやく理解した
つまり訳文にスマートさや衒学的趣味を目指したのかは知らないが、"WILL BE DEVIDED"と"AGAINST"をくっつけて「分かれて争わん」とするなら、むしろ「3人と2人」「2人と3人」のように「と」を使ってくれていれば、原文を知らなくてもどれだけ本来の趣旨を理解しやすくなることか…
訳文の最後も原文通りなら「娘」と"子"ならぬ「息子」と両親との対立になるが、前述の混乱で、「子が"息子"のことを指しているとして、何故同性同士が争うことになるのか」という、意味のない疑問で長いこと頭はフリーズしっぱなしだったというわけだ
 
ではこの引用が劇中のストーリー展開、テーマとどうリンクしていたのか、これこそ今回のブログ上梓の目的であり難解が故に長年手を付けてこなかったネタである
記述内容を通じた少々のネタバレは覚悟の上、いよいよ後篇でそれに取り組んでみたい
 
 
 
 


ご存じ、俺様的レコードのある生活は順調だ

最近行きつけになっている店を夜までハシゴすることもあれば、帰宅が22時、23時になるなんてことも慣れっこになってきた

レコード持参で県外に遠征することもあり、夜にビールを飲んで終電を気にしつつレコード談義をしていれば深夜になるわけだが、くれぐれも良識ある大人の方々には、この愚行に対して木で鼻を括ってほしい

 

あちこちの店でレコード鑑賞を続けて分かってきたことがあり、何かというとある程度音楽を時間をかけて聴き込んだレコードカフェやバーのオーナーは、他の人がどんな音楽を聴いているか気になる境地に至るようだ

 

こうなる動機は2つある気がする

1.今までに知らなかった、しかし刺さる曲を、より楽をして開拓したい

その意味で、俺が好んで持ち込むレコードは、彼らにとってはspotifyから勝手におススメされる曲と同義である

 

そして、これが多くのオーナーに共通してるだろう訳なのだが、

2.自分が知ってる曲を他のリスナーと共感したい

俺の経験上、「またレコードをもってきて」というのがオーナーの決まり文句になっている

 彼らは評論家ではないから自身の趣味に合う音楽しか聴かない

時間と金を使って集めたレコードは、己のアイデンティティの化身とも言える

店のストックのレコードに加えて俺が持参したレコードをネタに、彼らの趣味に合わせた話をオーナーとする、これは彼らの承認欲求を満たす行為になるのだ

 

それが分かって以来、店で払う対価として、そっと、しかしかなり意図的に

「この曲、刺さりますね」

という口添えをプラスする、そうして彼らの承認欲求をくすぐっている

 

レコードカフェ、レコードバーとはオーナー自慢のコレクションが商売道具になっている特殊な飲食店だ

もしも彼らとより仲良くなりたければ、きっと全国で大概通用するだろうキラーワードとして、上記をオススメしたい