最近、俺が触れる情報の中で押井守監督ネタが俄かに増えている (というか、押井監督関連のネタがよくメディアに取り上げられている)

数ある押井作品の中でもパトレイバー劇場版第2弾(1993年松竹配給)が個人的にお気に入りだ

余りに押井監督個人の趣味、感性むき出しの演出、脚本が嫌われて、公開当時は興行的にまるで振るわなかったこの作品、先日BSでのノーカット放送をあらためて拝見する機会があり、この独特な作品の世界観をより深く理解してみようと、1994年に発刊された押井監督自らの手による小説版を入手、読み込んでみた

実はこれが監督の小説家デビューの作品とのことで、成る程全体的な筋書きや映画劇中で実際に使われた登場人物のセリフの多くはそのままの形で収録されていて、何度もこの映画を鑑賞した俺のようなファンには、尺の関係でカットされたり結果的に説明が不足しているシーン毎の裏事情を理解しながら、筋書きの展開が劇中のビジュアルとリンクされてそれなりに楽しめる一方、映画を見たことの無い読者にとっては、押井監督が繰り出す難解な戦争観や軍用兵器に関する蘊蓄、ストーリーの進行と合わない台詞回しなど、相当違和感を感じる仕上がりになっているように思えてならない

小説というよりかは場面説明の情報を大量に書き加えた台本を読んでいる感覚、とでも言えばいいだろうか

執筆に苦労したと監督本人が小説後編のあとがきに寄せているのだから仕方のないことなのだが、パトレイバーシリーズで脚本を担当している伊藤和典氏が前編の最後に、この処女作に付き合うことになったファン向けのまるで言い訳のような解説文でこの理屈を解説しているので原文を転記しておこう

 

「そう、押井守は、けして《物語》のための映画を撮っていないのだ。フィルムでしか表現し得ぬことを表現し、フィルムによってのみ構築可能な世界を構築する。押井守の映画は、まず、そのためにある。フィルムのみが可能な表現を、どうやって文字にしろというのか?(中略)押井守の映画が難解であると誤解される一番の理由は、このあたりにあるんじゃなかろうか。」