(前編より)

「発想や企画のネタについて、忘れまいとしてメモを取ることはやめよう。
『忘れる』というフィルターがかかることで、不必要なもの、重要性が
ないものがこぼれ落ちていくから。忘れてしまうことは、しょせん「記憶」に
値しない、それだけのことなのである」
(秋元康 氏のツイッターより)

凡人である自分が彼と同じ土俵でこの話を
真に受けろといわれてもちと厳しい感じがするが、
言っていることはごもっともである
彼のこれまでの功績を踏まえて読みかえれば
彼が言いたいのは天才は初めから結論を
導くことができるが秀才、凡人は頭を使わなければ
いい答えにはたどり着けないから更なる努力が必要だ
ということだと思う
この過程の先に、同時に忘れようがない
堅牢な記憶が形成される、ということではないのか

例えば、ツイッターのようなメディアに安易に
思いつきのアイデアを書き込むことは、
140字の字数制限の足かせも手伝い、
さっき書いた内容を思い出す仕掛けを
自ら組み上げることを省略している
人に依りけりなのだろうが、正直これになれると
自分の場合ブログのような「まとまった」
ボリュームの文章が書けなくなってきているような
気がしてならない
物事を考えるときに足場を築いて結論を導く
プロセスを経ず、足場となるアイデアをつぶやいて
それ以上情報を精査しなくなっているのでは、
と考えたからだ
その可能性に気がついた最近は、
思考プロセスの足跡として、記憶の引き出しの取っ手として
紙の上でアイデアの枝葉を伸ばす作業を
思考訓練として出来るだけ行うようにしている