何年か前に映画「おくりびと」が話題になった頃だったか、青木新門さんの「納棺夫日記」を親戚のおばさんが、「いい本だから」と贈ってくださった。
そして少し前に、続編が出ていることに気づき、「それからの納棺夫日記」を拝読。
作者の叔父さんについてのところでは、涙がどうしても止まらなかった。
死を目前とした人は、
「あらゆるものが輝いて見える」
「何もかもがありがたいと感じる」
そんなようなことが書かれていた。
なぜ涙が止まらなかったのか、初めはよく分からなかったけれど、しばらくすると、それは、自分にとって、ある大きな謎を解いてくれたと気づいた。
死を目前とした叔父さんと、自分の姿を重ねていたのだ。自分は数年前に病気を患い、死には至らないものの、一番ひどい時は、痛みに耐え、ただ息を吸って生きるのが精一杯な状態だった。
そんな時、何もかもがただただ美しく、ひとつひとつの存在がありがたくて、よく涙を流していた。まさに、世界がありがたくて輝いて見えるのだ。
そう、それは、きっとその叔父さんが見ていたもの、感じていたことと同じようなものだったにちがいない。
私の場合は、どんなに苦しくとも、命がある。生きなければならない。だから、「なぜ生きるのか?」を問い続けたけれど、生と死はある意味同じテーマだ。
生死を深く考えるしかない状況になった、その時から見えるようになった、“何もかもが光るように美しい景色”。それこそが、「音の肩たたき」のテーマだったのだ。
それまではけっして見えなかった景色。同じものを見てきたのかもしれないけれど、見えなかった景色。
それが、どんなに美しいものか。その感動を音で表現したい。そうして創ってきた音楽が、「音の肩たたき」だったのだ。
以前から、言葉で単に「美しい」といったところで、その景色の重みが伝わらないという気がしていたけれど、自分でも、感覚的には表現できても、それがどういった景色か説明できなかった。
けれど、ようやく謎が解けた。
自分が見ていた景色が何だったのか。
音の肩たたきが、何を表現してきたものだったのか。
自分にとっては、大きな発見だった。