高倉和也の朝令暮改 -9ページ目

高倉和也の朝令暮改

お笑い芸人・高倉和也のブログです。

もはやめっきり秋の気配である。

朝晩は涼しさを通り越して寒い位だ。せいぜい昼間の日差しが少し熱く感じる程度で、その日差しすら夏の間にやる気を使い果たしたのか、消化試合を決めこんでいる。

夜、住んでいる部屋の窓を開けると、外からは秋の虫の鳴き声が聞こえる。冬は極寒、秋には虫が鳴き、夏はカエルが居座る、やたらと季節感だけはある部屋なのだ。

もはやめっきり秋なのである。

窓を開け、虫の声を聞きながら飲む。そんな風流を気取った事をやってしまうのも仕方のない事だろう。

全部秋のせいだ。

本当に風流を気取るなら、ここで飲むべきは日本酒なのだが、僕が飲むのはコーヒーだ。例によって、また気まぐれな禁酒である。

前回禁酒したのはいつだったか、そんなことは飲んで忘れてしまったのだが、またここのところ飲む量が増えてきていた。

生活が苦しくなるほどではないにしろ、それなりに懐を酒代が圧迫して、より安い酒をと思案した挙句甲類焼酎のデカイペットボトル入りのやつを買おうか真剣に悩む始末。

一人暮らしの部屋にあの、存在感抜群のボトルが転がっているさまを想像してみる。流石にこのビジュアルはマズイだろう。それでなくても僕の部屋には、キセルとか嗅ぎタバコとか巻きタバコのローラーと巻紙などの、誤解を招きがちなグッズが集合している。

そもそも、そんな物の購入を検討していることすら危険信号なのではないか?そう思い立ち、慌てて飲むのをやめたのである。

今回の禁酒で気づいたのは、(まあ飲まないことで初めて何かに気づくというのも危険な兆候だと思うのだが)僕は酒に対して、その味や、アルコールによる酩酊などを求めていないという事である。

味はともかくとして、酔う事ですら副次的な物であって、飲む目的では無いと感じているのだ。

じゃあ何故飲むのかといえば、それは酒を飲んだ時の、お腹があったかくなるあの感覚が好きだからである。

だから、ホットコーヒーでも代用が効く。あったかくなるならなんでも良くて、おそらく白湯を飲んでも満足するはずである。

しかし、白湯ではなくコーヒーを僕が選んでいるのは、もうひとつ、酒を飲む目的があるからだ。

それは、ちょっと身体の調子を悪くする事である。

二日酔いなんて本来はならないに越したことはないのだが、二日酔いから抜け出すときの感覚というのは、なんだかちょっと気持ちの良いものなのだ。不健康な状態から脱しただけで、要するに元に戻っただけなのだが、自分が健康になったような、何かを克服したような、誇らしい気持ちになる。

もちろん錯覚である。

コーヒーも、有る程度飲むと身体の調子が悪くなる。しかしここが重要で、そんな状態から脱することに価値を感じるのだ。白湯飲んでデトックスしている場合ではないのである。

そんなわけで、今日も僕は晩酌がわりにコーヒーを飲んでいる。

秋の夜長に虫たちの歌声を聴きながらコーヒーを楽しむ。我ながらなかなかのダンディズムである。これで部屋が四畳の賃貸ではなくオシャレなオープンカフェなら、明日にでもハリウッドからスカウトが来るだろう。

ところで、秋の夜長という言葉はこういう事を表しているのか、最近なんだか寝つきが悪い。

全部秋のせいだ。

妙に冴えた目で秋空を見上げながら、僕は五杯目のコーヒーに口をつけた。
アルバイトの休憩時間というのは、その時間をいかに有効に使うかが重要であると思う。

ぼやっとしているとすぐに仕事に戻らねばならない。

そうなると、なんだか休んだ気にもなれないので、何がしかの行動をして、時間の流れを実感することが必要だと思うのだ。

だから、休憩時間には社交ダンスもナンパもしていいのだが、硬派な僕はもっぱら読書をしている。

ある日も僕は、本を読んでいた。

読んでいるのは、高村薫作「李歐」だ。

この著者は、物や空間をかなり細かいところまで描写する。

中高生の頃は、その描写が説明くさくて嫌だったのだが、最近はリアリティが感じられて好きになってきた。

「李歐」のなかでもその細かな表現は健在だ。

物語のなかで密輸された拳銃を分解するシーンがあるのだが、分解前の拳銃の記述から始まり、分解されて次第に露わになる拳銃内部の様子、鋼の光沢や細かな形状といったことが、圧倒的な説得力をもって書かれている。

実際に拳銃を分解しながら書いたのではと思うほどだ。

しかし、こうしたリアリティのある描写よりも、僕はやはりフィクションの世界の拳銃が好きだ。いわゆるガンアクションである。

例えば、映画「デスペラード」。華麗な銃撃戦が続くアクション映画である。

主人公の握る銃身を切り詰めたショットガンは、全編を通し撃ちまくり。

少々バイオレンスだが、個々のシーンのかっこよさは男の子なら一度は真似しちゃう素晴らしさである。

もっとSFじみた、中学生の男が好きそうな映画をあげるとすれば、「リベリオン」しかないだろう。

世界観は、娯楽が統制された管理社会。定番にして王道の設定である。

男心をくすぐるのが、主人公や敵役が習得している「ガン=カタ」という戦闘術。

要は、銃を用いた武道のようなものだ。

この武道を習得するだけで、戦闘能力は200%ほどアップするという、雑誌の巻末で紹介される幸運アイテムみたいな武道である。

フルオートの拳銃2丁を携えた主人公が敵の本拠地に乗り込むシーンは、圧巻の一言だ。

当然、これらの映画は創作である。真実の部分などほとんどないだろう。

しかし、架空の武道を構築する戦闘理論や、人間臭さを感じさせるバイオレンスなアクションシーンに、リアルっぽさを感じるのもまた事実である。

リアルっぽさという点で言えば、精巧な拳銃の描写と、架空の理論で補強されたアクションシーンにたいした違いなどないのかもしれない。

結局のところ大事なのは、いかに見るものに本物らしさを感じさせるかであり、その手段の一つが精巧な描写であり、架空の武道の理論であるというだけのことなのだろう。

…そこまで考えたところで、仕事に戻る時間になった。

今日の休憩時間は有効に使えただろうか。

そんなことを思う暇もなく僕の意識は、仕事という目の前のリアリティに飲み込まれていった。
わたくし、高倉和也。

現在25歳、男、独身。

世間的には立派な大人。なんだかヒゲも前より濃くなった気がする。

そんなダンディーなメンズまっしぐらな僕だが、最近、年甲斐もなく声をあげて驚いてしまうことがある。

僕の今住んでいる部屋は建物の一階にあり、外に面した窓から一歩出るとベランダがある。

いや、一階なのでベランダとは言わないか。物干し場とでも言うのだろうか。

とにかく、そこにはちょっとしたスペースがあって、足元にはコンクリで固められた部分が半分、むき出しの地面が半分といった感じだ。

僕の一日の中で幸せな時間の一つは、この小さなスペースに出てタバコを吸うことだ。

部屋の中では、契約上タバコが吸えないので仕方ないことである。

その日も、僕はタバコを吸っていた。

キャンプとかバーベキューの時に使う、布と鉄パイプでできた折りたたみのイスに座りながら。

部屋の中からは、うっすらと徹子の部屋のオープニングが聞こえてくる。

バイトは遅番出勤なので、そろそろ出なくてはならない。

その前にもう一服…と、刻みタバコをひとつまみキセルにねじ込んだ。

最近始めたキセルは、一回の喫煙時間が短いのでつい、何回も吸ってしまうのだ。

ふと、横を見る。

むき出しの地面には、枯葉に枯れ草、石ころが転がっている。

その中の一つに目が留まる。

色味からして、枯葉だろうか?いや、枯葉にしては大きいし、厚みがありすぎる。

ならば、石か?いやしかし、見た目からも明らかなほど表明はブヨブヨしていそうだ。

だいたい、石にしては形がなんだが生物じみている…

一秒間、このモノがなんであるか思考を重ね…と、その時。

そのモノと、目があった。

その瞬間、理解する。ああ、これ、アレだ。でも、今まで見たことあるアレよりデカイし茶色いな…。

僕の座っている場所から、10センチの距離に、カエルがいた。

今まで、せいぜいアマガエルしか見たことのない僕だ。

この色、このデカさの輩には遭遇したことがない。

これはヒキガエル?ガマガエルかな?何てことを考える余裕もなく、僕はイスから転げ落ちた。

驚きで声を上げた拍子に口にくわえたキセルは落ち、手に持っていたタバコは箱からこぼれる。

真昼間から大騒ぎである。

そして、それに全く動じないカエル。いや、驚けよ。

自分だけ大慌てしてしまって、なんだか恥ずかしい気持ちになる。

結局そのカエル、バイトから帰ってきたらいなくなっていたのだが、それから数日ごとに、部屋の物干し場に出没するようになった。

邪険にするのもあれなので放っておいたら、平気で2、3日滞在するようになったので、箒でつついて追い出した。

それ以来滅多に姿を見せなくなった。

そのせいか最近、部屋に入ってくる虫が増えた気がする。

共存すべきだったのだろうか?
最近、バイトの休憩中に本を読んでいる。

元々本はまあ読む方なのだが、休憩中は2ちゃんねるのまとめサイトばかり見ていて、流石にもっと文化的な休憩時間を過ごしたいと思ったのだ。

さて、今読んでいるのは日本の古代史について書かれた本である。

古代史と言っても、その範疇は日本神話の中にまで及ぶ。

一見ファンタジーな内容の神話が、実は当時の歴史的事実を抽象的に表していたのではというような内容だ。

僕は、結構この日本神話というのが好きである。

やはり登場人物が神だけに、やることのスケールがデカイ。

まず注目するエピソードといえば、イザナギとイザナミが子を産むところだろう。

まだ混沌としていた世界を、イザナギが矛でもってかき混ぜると一つの島が形成された。

その島に二神が降り立ち、いざ、日本初のラブシーンとなるわけだが、その描写がまあ豪快である。

島に降りた二神は、お互いの身体を見て言う。

イザナギ曰く「なんか、俺の身体に一箇所だけすごい成長してる部分があるんだけど」

イザナミ曰く「私の身体には、一箇所だけ成長してないところがあるわ」

イザナギ曰く「この俺の成長したところで、あなたの成長してないところを刺して塞いで、子供を産もうと思うんだけどどう?」

イザナミ曰く「いいよ」

なんと大胆で直球だろうか。

こんなセリフ、合コンでも言ってみたいもんであるが、僕は神ではないので通報されるのがオチだろう。

ちなみに、このあとこの二神は子を産むわけだが、生まれるのは人でも神でもなく島である。

島さんという人を産んだわけではなく、国土、土地としての島だ。

初産で土地を産んじゃうイザナミ、流石神である。

これ以降、イザナギとイザナミは子供である神を産みまくるのだが、その生まれ方もだんだんおかしくなる。

イザナミが火の神であるカグツチを産んだ際、イザナミは股を火傷して瀕死の重症を負う。

なんでお腹にいた時は平気だったのかとか、野暮なことは聞いてはいけない。

苦しんだイザナミは吐瀉物や排泄物を出すのだが、それらからあっさり神が生まれるのだ。

最初のラブシーンはなんだったのかというようなお手軽出産である。

で、結局イザナミはしんでしまうのだが、悲しんだイザナギはイザナミが死んだ原因であるカグツチを殺してしまう。

で、そのカグツチの血や亡骸からまた神が生まれる。

その後、イザナギはイザナミに会いに黄泉の国に行き、なんやかんやで逃げ帰ってくるのだが、直後に川で黄泉の国の穢れを落とすため、顔を洗う。

で、またまたその時神が生まれる。

もうなんでもありである。

その後神話は高天原でスサノオ大暴れ!編、出てきて!アマテラス! 編、パパになったスサノオ!娘は絶対あげないもん!編などと続いてゆく。

単純にストーリーとしても面白いし、このような神話が作られた背景や、元となった事件や現象がどんなものだったのかと思いを馳せるのも楽しい。

よければ一度調べてみてほしい。きっと楽しいはずだ。
僕のことをよく知っている人からすれば、またかよ、という話だ。

今日、僕は二日酔いである。

と言っても、二日酔いになる頻度は落ちてきていたりもする。

前よりも飲む量が減り、毎日飲むこともなくなった。

それでも、何か嫌なことがあったりするとついつい飲んでしまう。

まあ、嬉しいことがあっても飲むのだが。

思い返してみると、酒を飲みたくなる時というのはマイナスであれプラスであれ、感情が大きく動いた時だ。

始めてネタが受けたときも酒を飲んだ。大喜利や企画で笑いが取れた時も酒を飲んだ。

マイナスのことで言えば、当時好きだった子に彼氏がいたことを知った日も酒を飲んだのを覚えている。

思えば、あれが最初の深酒、ヤケ酒だったのかもしれない。

酒というのは不思議で、楽しい時はより楽しく、悲しい時はとことん悲しくさせてくれる。

感情の増幅器のようなものだ。

二日酔いになると何もしたくなくなるのは、その反動で感情の波が立たなくなるからなのかもしれない。

そういえば、二日酔いというのがどこまでを指す言葉なのかはとても曖昧だ。

アルコールが抜けたらそこで二日酔いも終わりかというと、そこまで話は簡単ではない。

アルコールのせいで胃腸が荒れて不快感があればまだ二日酔いは続いているといえるのではないか。

顔のむくみなんかはどうだろう。二日酔いでもあんまりむくんでいない日もあれば、体調はすっかり良くなってもむくみだけはしつこく残ることもある。

明確に、ここからここまでは二日酔い!という基準はないのが現状だろうか。

にもかかわらず、体感としては二日酔いを脱した時はすぐにわかるから不思議である。

あ、抜けた!という感覚とともに身体が軽くなったような気がするのだ。

何千年と人間の文化のなかにあるのに、今だにこんな感覚的なニュアンスを酒は含んでいるのだ。

酒にはまだまだ謎が多い。

その謎を解き明かすために、僕はこれからも酒を飲み続けるのだ(言い訳)。