高倉和也の朝令暮改 -10ページ目

高倉和也の朝令暮改

お笑い芸人・高倉和也のブログです。

ついにこの季節がやってくる。

きらめく海、照りつける太陽、老若男女が己を解放する酒池肉林の季節。

夏である。

僕も御多分に洩れず、つい最近夏を謳歌したところだ。

もちろん、言わずもがなのアレである。

そうめんだ。

夏といえばやっぱりそうめんである。

毎年、何故か欠かさず食べたくなる。

不思議なことに、そうめんはどんなに沢山茹でても不思議と食べ切れてしまう。

お腹はもう張りを感じるほど膨れているのに、お口の吸引力は衰えることがない。

もしかしたらそうめんの美味しさの大部分は、すすることによる快感によるものなのかもしれない。

なんてことを考えているうちに、さっきまで山盛りだったそうめんは腹の中に消えていくのだ。

そうめんといえば、冷たいつゆにつけて食べるのが普通だが、僕がよくやるのは熱いつけ汁に冷たいそうめんをつける食べ方である。

鍋に麺つゆと鳥肉を入れて煮てみたり、中華スープの素とキムチの素でピリ辛にしてみたりするのだが、最近やって美味しかったのはトマトを使ったつけ汁だ。

少し大きめの器に、麺つゆとトマトピューレ、黒胡椒、バジルを入れて混ぜる。

それをラップをせずに電子レンジに入れ、三分から五分くらい加熱したら出来上がりだ。

そうめんを茹でるのと並行して作れるので、茹で上がったらすぐ食べられるのもいいところである。

ただ、このつけ汁は麺によく絡むので、後半になるとほとんど汁がなくなってしまうこともある。

先日などはまだ茹でたそうめんをまだ半分も平らげないうちにつけ汁がなくなったので、残りのそうめんは普通の麺つゆにつけて食べ切った。

そんなそうめん三昧な日々を送っていたある日、ふと思い立ち体重をはかってみた。

三キロ増えていた。

なので、そうめんを食べることを今は制限している。

僕の夏は、どうやら早々に終わってしまったようだ。
今回も、時期を逃してライブでやることがなかったボツネタを公開する。

気に入って頂けた方は、是非ともライブに足を運んで頂きたい。

今回のボツネタは、遠隔操作事件の片山祐介被告が、真犯人を装ったメールを送ったことを受けたものである…


舞台上にテーブルとイス。イスに座った男が、テーブルを挟んだ反対側を見て話す。

「だから刑事さんさあ、俺は何もやってないんだって。あれ、あれだよ、遠隔操作ってやつ!片山…祐介とかいうやついただろ?あいつ、まだ他にもやってやがったんだよ!だから俺は被害者だって!」

「え?そんなこと不可能?刑事さん、そんな古い考えじゃ、これからの犯罪についていけないよ。これからはサイバー犯罪が増えるんだから!」

「…うん、そうだよ、俺がやったのは食い逃げだけどさ。」

「…でもさ、だからってサイバー犯罪の可能性は捨てきれないよね?サイバー食い逃げなのかもしれないよ?」

「知ってる?サイバー食い逃げ。知らない?そりゃそうだよ、今俺が考えた言葉なんだから!あっはっは!」

「…あれ、調べた?注文した時に使ったタッチパネル!あれだよ、あれが遠隔操作されてたんじゃないの?」

「…うん、確かにさ、ご飯大盛りは口頭で頼んだよ?でも、俺がこの口で言ったのは大盛りだけだよね?」

「俺、タッチパネルに入力してないかもしれないなぁ、勝手に注文されたような気がしてきたぞぉ!」

「…いや、それ勝手に食ったのは悪かったけどさ。これは食い逃げとは違うじゃん!」

「わかんないかなー!もういいや、腹減ったからカツ丼とってよ!ほら早く注文して!」

「…行ったか。さて、カツ丼食ったらまた逃げるか。」
前回に引き続き、またゴジラの話である。

前回分を書いていたら、どんどんゴジラについて書きたいことが出てきてしまったので二回に分けることにした。

このブログ、一応頻繁な更新を心がけていて、時には文章を考えるのが辛いこともある。

だが、今回は楽しくて楽しくて、フリック入力する指が止まらずに、摩擦でちょっと指が痛いくらいだ。

その分、このブログを読んでくれている数少ない方々のなかで、ゴジラに興味のない方には苦痛を与えている事だろう。今回もご勘弁願いたい。

さて、ゴジラの話であるが。

ゴジラの魅力の一つに、わかりやすい強さというのがあると思う。

ゴジラの見た目や能力は、怪獣としてはありきたりなものだ。

口から火を吹き、形は巨大な恐竜型。翼も無いし、特徴的な牙とか、棘があるわけでもない。

しかし、それでいて最強。全ての要素が敵怪獣とは桁違いなのだ。

この、あらゆる敵を捻り潰すシンプルな圧倒的パワー。これこそがゴジラの魅力だ。

裏を返せば、ゴジラと敵対する怪獣は、個性的な魅力を持っていると言える。

その中で、特に僕が愛して止まないのがメカゴジラだ。一時期はTwitterのアイコン画像として使っていたくらい好きである。

このメカゴジラ、今までで通算三種類ほど登場しているのだが、僕が一番好きなのは最初のメカゴジラ。

昭和ゴジラシリーズの最後の敵として登場した機体である。

このメカゴジラのすごいところは、何と言っても圧倒的な火力の高さ。

リアリティをそこまで求められなかった時代故に、兵器と僕らの夢を全部のせしたロマン溢れる内容である。

目から発射される光線、胸から撃たれる高電圧ビーム。

そして、指は全部ミサイルである。再装填はどうするかとかいう細かいことは気にしない。

足の指も全部ミサイルだ。更に、膝にもミサイルがついている。

機体の全重量がかかる脚部の関節部分に爆発物を仕込むという、なんともデンジャラスな設計だ。

更には、火炎放射器も装備している。ただし、出るのは鼻からである。

鼻から火を吹くというのがビジュアル的にダサかったのか、他の兵器に比べ地味だからかはわからないが、火炎放射器は劇中では使われず、設定のみに終わっている。

このメカゴジラ、映画ラストでは頭をもぎ取られ、粉々に破壊されて海に沈んでしまうのだが、人気が出た為か次作で復活する。

バラバラになったメカゴジラの破片を回収して強化改造したという設定だ。

大海原から破片を拾うより、新しく作った方がコストが安くつくと思うのだが、そんなことは気にしてはいけない。

復活したメカゴジラは、更に強力な破壊力を手にしている。

指のミサイルは、手首を回転させながら撃つと威力が上がるという謎理論でパワーアップ。

前作で破壊された頭はもちろん強化されている。

ここで普通なら、もう二度と頭をもぎ取られないように丈夫にするなどの改良がなされるだろう。

しかし、メカゴジラの機能は斜め上の進化を遂げる。

頭をもぎ取られても大丈夫なように、内部に小ぶりな第二の頭部を増設したのだ。

もぎ取られることを前提に話を進めるという、ポジティブなのかネガティブなのかわからない改修である。

そんな復活したメカゴジラの戦闘シーンは大迫力だ。東宝特効チームの奮起した名シーンである。

昨今のリアル路線には無い魅力。それが、この昭和メカゴジラなのだ。
アメリカ版「ゴジラ」が日本に先駆けて世界で公開され、記録的なヒットを飛ばしている。

僕は、子供の頃から今でも、ゴジラが大好きである。

僕が生まれてから公開されたゴジラの映画はほぼ全部映画館で観たし、昭和の頃の作品も大好きだ。

そんな僕なので今回の新作も日本で公開されたらすぐにでも観たいと思っている。

何より期待できるのが、この作品が海外のゴジラファンからも評価が高いというところだ。

以前も、アメリカでゴジラがリメイクされたことがあったが、正直言ってあの映画はクソだった。

観たのは小学生の時だが、当時の僕は純粋だったので、ゴジラの映画がつまらないなんてことはないと信じきっていた。

なので、映画館を出た後も現実を直視することが出来ず、CGがすごかったとか、ジャンレノが出てたとか、良かったところを必死で探したのを覚えている。

あの映画の良くないところはたくさんある。

戦闘ヘリと戦うシーンでは、戦闘ヘリが追いつけないくらい速く走れるのに、主人公が逃げる際乗ったタクシーには追いつけない。

高層ビルに引けを取らないくらいデカイかと思えば、地下鉄構内に隠れられるくらいの大きさになったり、場面によってサイズがまちまちである。

要は、近代のSF映画なのに設定がガバガバなのだが、僕が一番嫌いなのがラストシーンである。

映画のラスト、ゴジラは倒されるのだが、皆さん、ゴジラを倒すということがどういうことかおわかりだろうが?

例えば日本のゴジラなら、である。

ある時は火山の中に落とし、眠りにつかせることで倒すことができた。

またある時は極寒の海の氷の中に閉じ込め、眠りにつかせることができた。

そう、ゴジラを殺すということは、それほど難しいことなのだ。

ゴジラを完全に抹殺することができた兵器はただ一つ。天才化学者である芹沢博士の開発した化学兵器「オキシジェンデストロイヤー」だけだ。

水中の酸素を破壊し、生物を液状に溶かしてしまうこの兵器によって、ゴジラは東京湾の藻屑となって消え去った。

さて、そんなハードルの高いゴジラの抹殺、以前のアメリカ版ではどうだったかというと。

普通に米軍がボッコボコにして終わりである。

具体的に言うと。

ミサイルドーン!

大砲ダーン!

マシンガンバリバリバリバリ!

USA!USA!

こんな感じである。

全然具体的じゃないじゃないかと思うかも知れないが、本当にこんな感じである。

特になんの捻りもなく、通常兵器でゴジラが倒されるという、なんとも拍子抜けする結末だった。

新しいアメリカ版ゴジラは、そんな結末にならないことを切に望むしかない。

日本での公開が楽しみである。
架空の生物というのがいる。

神話の中の神獣や、正体不明のUMA。妖怪などもその一種と言えるだろうか。

これらの生物は、もちろん実際には居ないのだが、知名度で言えばアフリカの片隅にいる哺乳類の成れの果てみたいな生き物より断然高いだろう。

つまり、「本当はいないということを、みんな知っている」し、「みんな知っているけど、本当はいない」のだ。

これって、結構特殊なことだと思う。

そもそも架空の生物とは、気象現象を生物の仕業としたという形の間違いであったり、あるいはたんなる嘘が始まりだ。

それらは、存在が信じられていた頃には確かに「実在」していたのだ。

ところが、その正体が科学的に解明されてなお、未だに消えることなく、「本当はいない生き物」として存在し続ける。

むしろ、架空の生物となってからの方が人気があったりするのだ。

存在しないという認識には、人を夢中にさせる効果があるのかもしれない。

ということは芸人でも、「架空のお笑い芸人」というのがいたら人気が出るかもしれない。

なんだか言葉の響きも「孤高のお笑い芸人」みたいでカッコいい。

ライブでネタや企画なんかをやる時に、芸人側がまったく意図していないタイミングで笑いが起きることがたまにある。

そんな時、実は舞台上には架空のお笑い芸人がやってきていて、そいつが笑いをとっているのだ。

もちろん架空の存在なので、姿は見えない。

それでも、みんながその存在を知っているのだ。これはありかもしれない。

いや、しかし、よく考えたらダメだ。

そもそも、誰かが変な笑いを起こさないと出て来られない究極的な受け身の芸なのはかなり痛手である。

それに、芸人からしたらせっかく起きた笑いを持って行ってしまう笑い泥棒みたいに捉えられるだろう。

結局、嫌われ者の小汚い容姿を与えられて、人気のない小物の妖怪としてイラスト化されそうである。

…なんだか、実際語り継がれる架空の生物も、高貴な神獣になるか下世話な妖怪になるかの境目はこの辺にあるような気がする。

あちらも人気商売のようだ。お客を呼びたくて仕方ない芸人としては同情したい気分である。