高倉和也の朝令暮改 -16ページ目

高倉和也の朝令暮改

お笑い芸人・高倉和也のブログです。

アドルフ・ヒトラー。

ユダヤ人を迫害し、独裁体制を築いた男だ。

誤解、曲解、罵詈雑言を恐れずに言えば、僕はこのヒトラーという独裁者の能力に羨ましさを感じる事がある。

それは、演説についてだ。

ヒトラーの演説は、大衆を虜にし、民主主義という制度の中から独裁者を生み出した。

クーデターなどの軍事的圧力、宗教的な権威ではない。民衆の心をつかむことで権力を手にしたのだ。

人々の心をつかむ話術。

これがあれば、独裁者としてだけでなく、芸人としても大成できるだろう。

まあ当然、ヒトラーの行ったことは許されることではない。虐殺行為はNOだ。

言葉一つで国の形が変わる。民主主義とは、そういった恐ろしさがある。

言論の自由を担う物の一例として本を挙げるなら、アンネの日記が破損された事件とは、一体どういう意味を持つのだろう。

素直に反ユダヤの意思が動機と見るか、そういった行為をする人物が日本人にいることを広めようとする意思か。

それとも、国際問題に発展しかけたので、適当な人物を犯人として逮捕したのか。

昔から図書館では、本を破る行為がよくあったという。

奇抜な行為をすることで目立ちたがる者たちの行為。

しかし、いざ世間の注目を浴びると逃げ出し、捕まった者に全ての罪が被せられるのだ。

僕が、このような卑劣な者たちと決定的に違うのは、目だてる状況であれば何が何でも光を浴びようということ。もちろん法に触れることはしていないが。

注目を集めるなら、正統な行為でだ。

政治的な思惑に利用されるような行為はしたくない。
後悔とは、何度経験しても辛いものだ。

過去の自分の行動に嫌気が差し、もう二度とあんなことはすまいと決心する。

しかし一方で、ほとんどの後悔は数日するとすっかり記憶の彼方に追いやられてしまう。

そして、また同じ後悔を何度も繰り返してしまうのだ。

僕は今日、またいつもの後悔を経験した。

二日酔いである。

酒を飲んで幾千もの夜を経てきた僕だが、大抵飲んだ翌日の目覚めは悪いものだ。

僕はもうだいぶ二日酔い慣れしているので、その対策も色々試している。

そりゃ、一番効果的な対策は酒を飲まないことなのだが、それは言わないのがキミとボクとのお約束。酒飲み達の暗黙の了解である。

以前は、二日酔いの日はウコンと野菜ジュースを飲んで、さらに大量の水を飲むのが定番コースだった。

これ、一応効くことは効くが一つ盲点がある。

確かに肝臓の働きを良くすることや、分解した毒素を排出するための水分は必要だ。

だが、肝心の肝臓を動かすエネルギー源がない。

肝臓を動かすには、エネルギー源となるブドウ糖が必要なのだ。

なので僕は、以前は二日酔いになったら炭水化物を食べていた。チャーハンとかチャーハンとかチャーハンである。

しかし、一人暮らしとなると作った後の後片付けがめんどくさい。

それに、食いしん坊の悪い性で、肝臓が必要とする以上の量を食べてしまうのだ。

言い忘れていたが、食いしん坊なので二日酔いでも食欲はある。食いしん坊万歳!

ま、そんなこんなで試行錯誤してきたわけだが、今朝はまた違うアプローチをしてみた。

二日酔い対策として今朝活用したのは、ズバリコーラである。

考えてみるとコーラには、糖分も利尿作用のあるカフェインも含まれるし、二日酔いの荒れた胃袋には炭酸のシュワシュワが気持ちいい。

そもそもコーラは胃腸薬として作られたという噂もあるとかないとか。

これは、二日酔いの特効薬と言ってもいいかもしれない。

そして、もう一つ酒飲みとして朗報と言えるのは、胃が荒れていても炭酸なら飲みやすいということ。

今度から迎え酒をする時は、炭酸の入ったサワーを頼むことにしよう。
本には、特定の時期に触れなければ面白さがわからないものがあると思う。

時期というのは、例えば年齢だ。

石田衣良の「池袋ウエストゲートパーク」シリーズは、十代後半の頃読むのが一番面白いと思う。

それ以前の年齢ではストーリーの題材が理解しずらいし、それ以後の年齢では世界観に共感しづらくなってくる。

池袋のトラブルシューターを担う主人公マコトは、十代の男が憧れるかっこよさがある。

また、扱われる題材はヤクザ絡みの事件や薬物犯罪、ギャンググループの抗争などが多く、社会の裏側をマコトを通じて知ることで、なんだか世間のことをわかった風な気分にしてくれるのだ。

年齢にあった作品を読むのが一番楽しく、深く理解が出来て良いと思うのだが、時期というのはもう一つ、時代というのがある。

尾崎豊は長いこと、若者の代弁者とか、カリスマみたいな扱いだったが、最近の若者は別に学校で支配されてるなんて思わないし、ガラスも割らない。バイクも盗まずちゃんと買う。

さらに時代を遡ると、そのポジションにいたのは太宰治だ。

太宰の作品は、若者の心の中にある自分を良く見せようとすることへの恥ずかしさ、そしてそれを見抜かれることへの恐怖を表現したことから、時代を超えて若者に読み継がれる、みたいなことを誰かが何かの本で書いていた。

それを見た僕は、太宰治を読んでみようと早速本屋に行き、「人間失格」を買ってきた。

確か高校生の頃である。当時、こんなタイトルの本を買う退廃的な高校生のオレカッコいい的な感情を抱いたものだが、今考えればみんな買っているから今でも売っているのであって、なんら特別なことではないのである。

早速読んだのだが、まあ、結論から言うとあんまり面白くなかったのが正直なところだ。

「自分を良く見せることへの恥ずかしさ」は確かに感じたし、ていうか本文にしっかり書いてあるのだが、なんだかそれがカッコつけることの言い訳に思えたのだ。

人間失格は、太宰治の自伝的作品でもあるという。

そんな今作の主人公、やたら女にモテる。

女に色仕掛けし、金や酒、薬物まで恵んでもらうのだ。

作中では、こんなことをしている自分は醜くて嫌いだ、と書かれている。

でも、結局それって自分がモテること自慢したいだけなんじゃないの?と感じた高校生の僕である。

「泣いてる女にはまず甘いものをあげると落ち着かせることができる」

なんて恋愛マニュアル本みたいなことまで書いてある。

こんな自分は醜いという予防線を貼っておいて、ちゃっかり自分のモテテクニックを披露しているのだ。

さらに気取った描写としては、主人公が友人と行った遊びがある。

これは、ある言葉の対義語を考え、それが本当に対義語たりえるか二人で議論するという遊びだ。

もうルール説明の時点で、こんな知的ゲームしているオレドヤァ感がすごい。対義語のことも「アント」って言うし。何語か知らんが。

それで二人で
「○○のアントは、○○」
「いや、それはアントとは言えないなぁ」
「じゃ、△△か」
「それも違う。それはむしろ同義語だ」
みたいなことをするのである。

心底どうでもいいと思った。

また、まあサスペンスものじゃないので当たり前でもあるのだが、話が全然進展しないのだ。

基本的に話の流れは、女と会うか酒を飲むか、そんな自分にヘコんでいるかの繰り返しである。後半はこれに薬物も入ってくる。

そんなこんなで、なんとか読破はしたものの特に感動するでもなく、以来ずっと本棚の肥やしである。

しかし、僕が余り感動できなかったのは僕が今の時代に生きているからで、出版された当時の若者にとっては共感できる、リアリティのある話だったのかもしれない。

これが、時代が合わないということだと思う。

なので僕は、現代に生まれて良かったと思うのだ。

アントを当てるゲームなんて、僕は絶対にやりたくないので。
飛行機に乗るって、楽しいのだろうか。

僕は今までの人生で飛行機に乗ったことがない。

つまり、空を飛んだことがないわけで、僕の身体に揚力がかかったこともないし、音速の壁を超えられず悩んだ経験もない。

そんなわけだから、僕にとって飛行機は移動手段というより、ちょっとしたイベントである。

離陸の瞬間はやっぱりふわっとするのかな

とか

窓際の席に座ってる時にエンジンが日を吹いてるのを見たら再現ドラマばりにリアクションしてやろう

とか

もし飛行機がハイジャックされたら、正義感の強い初老のショーンコネリーみたいなおじさんがハイジャック犯と対話し始めるのをまって、抜群のタイミングで「そうだそうだ!」と合いの手を入れてやろう

とか、色々妄想してしまう。

しかし、マレーシア航空機が消息を断つというこの間の事件を見ると、なんだか飛行機が怖くも思えてくる。

一体、あの飛行機はどこに行ったのか。

墜落とも、ハイジャックとも断定できない状況だという。

オカルト的に考えるなら、次元とか、時空の狭間に迷い込んでしまったのだろうか。

だとすれば数年後、ひょっこり現実に戻ってくるかもしれない。

ふと思うのだが、その場合マイレージは現実世界での移動距離で決めるのか、乗客が居た異世界での距離なのかどちらなのだろう。

数年間もさまよっていたら、エコノミークラスの客は尻がカチカチになっていそうだ。

尻が形状記憶するまでに、帰ってきて欲しいものだ。
人は、毎日椅子に座る。

家、職場、電車やバス。

ふと思うのだが、人はいつから椅子に座るようになったのだろう。

恐らく最初は、地べたに直接座っていたものが、その辺の石とか、倒木なんかに座り出したのだろう。

当時の感覚としては、地べた以外に座るのはどういう感覚だったのだろう。

地面ほどスペースに余裕がないので、場所の取り合いになったりしたのだろうか。

そのうち、どうしても地面に座りたくないやつが、マイ石とか、マイ倒木を持ち運びだす。

獲物を狩る時もいつも持ち歩く。おかげでいつもそいつのせいで狩りは失敗である。

西洋では、家を建てる技術ができてくると、フローリングや石造りの床に直接座るのは、お尻が痛くてやっていられなくなる。必然的に椅子が必要になり、何個もの椅子が作られる。

部屋の中には限られた数の椅子しか置けないので、何人も座れるソファーを作ったり、部屋そのものを大型化する。

当然、家を建てるための土地が足らなくなる。椅子を置くために、近隣の人々との争いは絶えない。

西洋における戦争は、椅子を置くための争いと言っても過言ではなかろう。

一方、日本は床に直接座布団を敷いた。

日本に椅子に座る風習が入ってきたのは明治時代以降だという。

椅子の伝来とともに日本は、他国に土地を求めて戦争を行う時代に突入した。

つまり、椅子の歴史とはそのまま争いの歴史でもあるのだ!(断言)

以上、無理やり考えた椅子戦争論でした。