高倉和也の朝令暮改 -14ページ目

高倉和也の朝令暮改

お笑い芸人・高倉和也のブログです。

「惰眠を貪る」という言葉があるように、休みの日にダラダラと寝られるだけ寝るというのはついついやってしまいがちである。

僕も休みの日はつい、ダラダラと昼過ぎまで寝てしまったりするのだが、そんな時邪魔になるものが一つある。

尿意である。

頭ではまだあと二時間は寝ていたいのに、身体の方ではすでに膀胱がピリピリと張り詰めている。

欲求と欲求のせめぎ合い。どちらも本能的な欲求なのでたちが悪い。

これが、尿意ではなくて権力欲とかなら、社会的な地位なんてかなぐり捨てて寝ているところだが、さすがにこの歳でのおもらしは社会的どころか人としての地位を失いかねない。

でも、寝たい。事実眠い。その間にも着々と膨らむ膀胱。なんだか痛みも感じてくる。

このくらいになるとそろそろ起きようかと思うのだが、不思議なことに起き上がろうと少し寝返りを打つと膀胱の痛みが引くことがある。

重力の作用なのかなんなのか知らないが、寝ぼけ眼というのは隙あらば寝たい状態。こうなれば選択肢は一つなのだ。

痛みも引いたし、もう少し寝るか。

こうして、僕は再び眠りにつく。このあと再び痛みによって起こされ、寝返りをうち、を数回繰り返すのだ。

当然、最終的には限界が来るので起き上がるのだが、ここからが地獄である。

今までは横になっていたので、膀胱内の水分は尿道とほぼ平行方向に溜まっていたものが、起き上がったことにより一気に尿道に押し寄せるのだ。

起きて動き出したことで膀胱への圧も増して、痛みも酷くなる。尿意と言うより腹痛である。

それでもどうにか堪えてトイレに行くのだが、こうやって限界まで尿道を我慢した時には、尿はチョロチョロとしか出ないのだ。

これがなんとももどかしい。体内でパンパンなのはわかりすぎるほど自覚しているのに、目に見える水流はなんとも弱々しい。

しかし、ここで変に力を込めて尿を解き放ってしまうと、色んな器官にダメージを与えそうで怖くなってしまう。

結局、長い時間をかけてチョロチョロと排出するしかないのだ。

こうしてむかえる朝は、なんとも憂鬱である。出来ればあまり体験したくないものだ。

さて、明日は休みである。

…寝る前にもう一度トイレに行っておくか…。
いつも使う最寄りの駅には、バス乗り場のそばに桜の木が植えてある。

今は蕾も多く、満開までもうしばらくかかりそうだ。

毎年春になると、気付けば桜を気にしてしまうたび、自分は日本人なのだと実感する。

日本、そして桜といえば、思い浮かぶのはお花見だ。

しかし、僕はお花見というものをほとんどしたことがない。せいぜい子供の頃に家族で近所の公園に行ったくらいで、成人してからはほぼ無いといっていい。

一年のうちで、お花見は昼間から酒が飲める数少ないチャンスなのに、非常に勿体無く感じているのだ。

しかし、よく考えてみると何故、お花見の時酒を飲むのだろう。

桜を楽しむだけなら別に飲食する必要もないし、木の根元に座り込む必要もない。

桜のある場所に行き、立って桜を楽しみながら
「綺麗な桜ですなぁ」
「そうですわね、オホホホ」
なんて会話を交わせばいいのだ。

うん、自分で書いておいてなんだが、なんともつまらなそうである。

昔誰かがテレビで言っていたが、日本人は昔から、花見や祭りなど、普段と違う非日常的なイベントを開催することで、変わりばえしない日常を離れストレスを発散していたという。

そういう観点から観れば、お花見というイベントは単に桜を見るだけでなく、それに便乗してストレスを発散する役割もあると言えるだろう。

「桜は人を狂わせる」という言葉がある。

普段大人しい人が花見の席で酒を飲み、抑圧されていた自分を解放する様は、傍目には狂ったように見えるのだろう。

つまり、酔わなきゃ大人しいままであって、桜のせいでおかしくなるわけではない。

しかし、そこで酒のせいにしてしまうと、花見の席どころか、普段から酒を飲みづらくなってしまう。

そこで、昔の酒呑みは考えた。

あれは酔っているのではなく、桜に狂っているのだと。

要するに、人目を気にせず飲んで騒ぎたい酒呑みの戯言。

そんな戯言が、僕は大好きだ。

もし機会があれば、今年は桜に狂わされたいところだ。

もちろん、酒は持っていく。
僕は、辛いものが好きだ。

パスタだったら鷹の爪、鍋をするならキムチ鍋。酒は断然辛口派である。

よくインスタントラーメンなんかに小さい七味の袋が「お好みでどうぞ」的な感じでついているが、七味をお好みになる人はあんな量の七味じゃ満足できないだろう。

僕クラスになると、いざ七味を入れるとなったら腹を括る。

スープの色が変わって、元の味がどんなだったか思い出せないくらい入れないと気が済まない。過去を振り返らないのが男である。

しかし、同時に、過去からの束縛から逃れられないのも人のさが。

こんなにも辛いものが好きな僕なのに、ちょっとでも辛いものを食べるとお腹を壊してしまうのだ。

そもそも、口の中も胃も腸も粘膜のくせに、なぜ口まではウェルカムで腹の中ではアウェーなのか、僕の身体は。

出来ることなら、口の中の粘膜を消化器官全部に移植したいくらいだ。

ちなみに、それだけすぐお腹を壊すなら普段から胃腸が弱いかと言えば、そんなことはない。僕のデフォルト設定は便秘症だ。

辛いもの、もっと限定すれば唐辛子を食べると翌日は、トイレでスプラッシュマウンテンだ。

どうやら唐辛子が身体に合わないらしい。

もしかして、前世で唐辛子を粗末に扱ったとか、唐辛子で人を殺したとか、唐辛子が元で国王の娘と駆け落ちしたとか、そんなことがあったのだろうか。

さすが後引く辛さの唐辛子。転生の壁を超えてまでやってくるとは思わなかった。

これからは、唐辛子に畏敬の念を持って接しなければなるまい。

明日も、腹を括って唐辛子を食べよう。
先日、映画「レオン」を観た。

出演はジャン・レノ、ナタリー・ポートマン、ゲイリー・オールドマン。

役柄はそれぞれ、凄腕の殺し屋、その殺し屋に助けられた少女、そしてヤク中の麻薬捜査官。

この映画は小学生くらいの時にも一度テレビで観たのだが、やはり面白かった。

しかし、やはり小学生の時と現在とでは、観るポイントも変わってくる。

小学生の時、この映画を観た僕は、最初から最後までずっとナタリー・ポートマンに釘付けだった。

作中での設定では年齢は12歳、実際の年齢も多分同じくらいだろう。

当時同年代であった僕は、大して年も変わらない彼女の出す妖艶さ、大人びた色っぽさに完全にやられてしまった。

慣れない手つきで拳銃を磨くシーンなんてもうドキドキである。家族にばれないように、録画したビデオを巻き戻しては何回もみた。

結局、そのシーンだけ極端に画質が悪くなってしまいばれてしまったのだが。

他にも、シャンパンを飲み干して大笑いするシーンやエクササイズをするシーン、拳銃をこめかみにあてるシーンなど、枚挙にいとまがない。

しかし、今になってまた見返してみると、また違った視点でこの映画を観られる。

はっきり言って、この映画で最もかわいいのはナタリー・ポートマンではなくジャン・レノである。

映画館で、無邪気に映画に感動して屈託のない笑顔をみせるシーンは、無垢な少年のようだ。

直前のシーンでマフィアを十人近くぶっ殺した後なのでギャップもひとしおである。

ナタリー・ポートマン演じる少女に愛を告白された時の取り乱し方もなんとも初々しくてかわいい。

少女に男が話しかければ、仕事の話をほっぽり出してかけつけ、「あんなのと話しちゃダメなんだから!」と、嫉妬丸出しである。

そんな感じなので、殺しの仕事を貰っている馴染みのオヤジにもすぐに、「お前女ができたのか?」と見抜かれてしまう。

すかさず、あたふたしながら否定するのだが、もうリアクションで完全にバレバレ。

「お前、好きな子いるだろ?」「はぁ!?い、いるわけねえじゃん!」という中学生とおんなじである。

このように、小学生の頃と今とでは感じる印象が変わってくるのがこの二人だが、逆に一貫して変わらないのはゲイリー・オールドマンだ。

彼の演じる麻薬捜査官は、とにかく狂っているという一言に尽きる。

あまりに強烈な印象があったので、見返すまでは映画全編に渡って出ていたような気がしていたのだが、見返してみると主な出番は最初の方と最後の方だけだ。

それ以外はほとんど話に関わってこない。なのに、こんなにも脳裏に焼きついているのだ。

薬をキメてから麻薬をネコババした男の部屋に行き、家族もろとも惨殺するシーンは狂気に満ちている。

というか、この映画以降の、所謂狂った悪役というのは、ゲイリー・オールドマンのこの演技が元ネタなんじゃないかと思うほどだ。

ちなみにゲイリー・オールドマン、同じリュック・ベッソン監督の映画「フィフス・エレメント」にも出ていて、そっちもかなり狂った役である。

なんだかんだ言って、この映画の出演者の中で僕が一番好きなのはゲイリー・オールドマンなのかもしれない。
大阪市の出直し市長選が話題となっている。

果たして、選挙に大義があったのか。

結局のところ、橋下氏が再選する形となった。

個人的には、僕はこっそりとマック赤坂氏を応援していたのだが。

特に良かったのが、橋下氏が行ったタウンミーティングの会場に現れた時のことだ。

発言しようとしたマック氏は、羽交い締めにされ連れ出された。

そして、会場の外で報道陣を前に

「暴行を受けました。おそらく脱臼してます。いたたた…」

と言い残すと、颯爽と救急車に自分で乗り込んでいった。

たぶん、この人が市長なら、市民に隠し事をしないクリーンな市政を望めるに違いない。

ちなみに、隠し事をしないだけで有能かどうかは別問題である。