11月。幸せな時間に安心しながら、心の片隅には、悲しい予感がありました。
「わんこさんは、人生の終い支度をはじめてしまっている。」
お別れの日がいつなのかは、私にもわんこんさんにも分かりませんが、わんこさんは確実に、終い支度に入っているのが分かるのです。
だから、ただただ安心にひたって幸せに暮らしていたという前回の記事は、現実とは少し違っていて。どうしてもどうしても飲み込むことができないお別れを意識しながらも、受け入れがたく否定したくて、抗いながらの平穏だった。あえて気づかないふりまでしていた。そう伝える方が正確です。
意識すれば胸がふさがれるような、悲しい予感。歩くことはおろか立っていることすらできず、道路に横たわってしまったわんこさんが雨に打たれている姿は、まるで打ち捨てられた古いぬいぐるみのようでした。
老いるって、こんな仕打ちを受けなくてはいけないほどの罪悪なの?ただまっすぐに生きてきて、その結果がこんな残酷であっていいの?誰に抗議したらいいのか、どこにぶつけていいのかわからない、悔しい気持ち。それならいっそ、現実から目を背けて気づかないふりをして、わんこさんとの時間は永遠だと信じ込んでいたかった。
過ぎ行く時間に対して無意味な抵抗を続ける私とは対照的に、わんこさんは何も言わずひたすら実直に、懸命に現実を生きていた。
わんこさんの、グレーに変化してしまったけれど悟りきったような瞳には、いったい何が映っていたのか。
わんこさんは庇護される側、私は庇護する側だと思っていたのは、私だけだったのではないだろうか。時間に対して無意味で幼稚な抵抗をする私を、温かく見守り、優しい大きな力で包み込んでいたのはわんこさんの方だったのではないか。
安らかな数週間、避けられないお別れに対しての心の準備をする時間を、ゆっくりたっぷりとることができた。噛みしめるように理解して、なんとか飲み込めるかもしれないという境地にまでもっていけた。そうしながらも、体調の良さに安心して微笑みながら、やるせない悲しみを内包した穏やかな時間を過ごしていられた。
悲しく辛いことには変わりないお別れ。けれど、わんこさんは考えに考えて、一番ダメージの少ない優しい受け取らせ方を用意していてくれたのではないか、というのは考えすぎでしょうか?
命の灯が消えそうなわんこさんにそこまで心配されるような、私は、頼りないお母さんでした。そしてわんこさんは、どこまでも優しいすばらしい子でした。