ディディエの鼻は鼻腔の奥にガソリンのような強烈なにおいと、じくじくと痛む擦り傷にスプレーをかけられたような感じがする。何度か鼻をすするたび、その感覚は薄れていき、後ろから聞こえる笑い声が大きくなってくるような気がする。
「ディディ、元気だったの、今週は」
笑顔のままジュリアンが話しかけた。
「まあね、普通だよ。来週からひとつプロジェクトが始まるんだ。その準備で忙しかったかな」
「ディディーエ、えへへへへ、最近何してたのさ」
アンドレが二の上を叩くとディディエはちょっと腕をそらした。
「なんだよお、ディディーエ」
「ディディーエじゃねえよ、大丈夫かよアンドレ」
「久しぶりに会えて、アンドレは嬉しがってんだろ、きっと」
ジュリアンが口をはさむと、そうだといいながら、アンドレが煙草を取り出し、ディディエに勧める。
「いや、いいよ。持ってるから、自分の」
軽く眉をあげるようにアンドレはディディエを見ると煙草に火をつけた。
ジュリアンのバックオフィスはわりとこぎれいに片付いている。シャッターがしまった正面の入口は全面が窓ガラスばりで、オフィス内は壁が取り払われ、洗練されたイメージを与えている。ジュリアンは不動産会社の社長だった。部下の3人は営業で仕事をしている奴らだったとディディエは思うが、名前をすっかり忘れてしまった。でも、互いに顔見知りでジュリアンという名前さえ忘れてなければ、ディディエもアンドレも彼らとは話が通じた。
オフィスの電話が鳴った。夜の9時にオフィスの電話など普通は鳴らない。一瞬辺りが静まった。
「出ましょうか?」部下のひとりがジュリアンにたずねた。
「いや、いいよ。金曜日の夜遅くにオフィスにかかる電話など、大した話じゃない」
電話はまだ鳴り続いている。
「いいんですか?」
答える前にジュリアンが受話器を取り会社名を名乗った。軽く二言三言話すと電話を切った。
皆がジュリアンを見る。
「間違い電話だよ。ばあさんの声で、’クリスティーナはいるか’ってさ。どこにいんだよ、’クリスティーナ’」
ただの間違い電話だった。それなのに、金曜日の夜9時過ぎにオフィスにかかってきたそれがどうしようもないおかしさであるような、ばあさんの声音を真似したジュリアンの裏返った声色が単純に愉快で、一同が大笑いした。笑うことがどうにもにおかしくてみんなしてまた笑う。同じ笑いのツボを共有できた嬉しさで、もう一度笑ってから次第に静かになっていった。
ジュリアンは黒い皿に残っているラインをクレジット・カードのヘリで全部崩して、小さな包からまた白い粉を取り出した。器用に粉を全部ならすと、今度は丁寧に3cmくらいの長さの6本のラインをよりわけた。ジュリアンは自分で持っていたポストイットを丸め直すと、左の鼻の穴にいれた。右の鼻腔を指で抑えて思い切り鼻をすすると、一気に一本のラインが消えた。
つづく