「あつこ、俺は明日は仕事がないけど、だからってこの寒い期に太陽を拝むのは好きじゃないんだよな」と、男はいいながら、もう一度、私の肩に腕をまわした。この男の名前は何だったか、すっかり思い出せない。ずいぶんと酔っていて、顔を近づけられるたびに口元からアルコールの臭いがし、私は顔をそむけて、腕を肩からほどいた。
「何だよ、あつこお」
「ムッシュ、長いことお待たせしてしまったかしら。喉乾いたから何か飲みたいの。バーで買ってくるけど、あなたは何かいる?」
フランスでは男の名前を忘れても、まずムッシュと呼んでおけば悪いことはない。弁護士にはメイトル、医者にはドクトル、それ以外の職業ではたとえ配管工であろうと、タクシー運転手であろうと相手が何をしているかなど親しくならないとわからないから、ムッシュと呼ぶことでその場がずいぶんと和むのだ。
「俺が買ってきてやる」という男に、カクテルを飲みたいけれど、名前がわからないからバーカウンターに行って調合してもらいたいといって、ダンスフロアに戻らせた。「スツールに座ってっからさ。早く戻ってこいよ」と男はいって、人込みに消えた。バーカウンターに向かって歩き出したところで、二の腕をつかまれた。マルタンだった。
「あら、マルタン。どこにいたの?」
「あいつ、誰さ?」
「知らないわ」
「あつこの名前を呼んでたじゃないか」
「あなたと会う前に、一緒に踊ろうと誘われてたの。名前を聞かれたから答えただけよ。あなたこそどこにいってたのよ」
答えを聞くまでもない。私はバーに向かってまた歩き出した。マルタンが一緒についてき、「あの男はよくないよ」といった。そうね。よくない男かもしれないわね。でも、あなたもそう変わらないじゃないの。私が男と話している間、どこに行ってたのよ。思いつきでカクテルを飲みたいからといったけれど、マルタンと話すうちに、いらいらとしてき、本当に何かを飲もうと決めた。バーは混んでいた。カウンターの周りに客が集まっている。
「あつこ、ここから出ようよ、一緒に帰ろう」
「今何時?まだ始発まで時間があるじゃないの。歩いて帰るのは嫌。私はもう少しいるつもり」
「家にくればいいよ。ジュシューだからそんなに遠い距離じゃないし」
「いやあね、弟さんいるんでしょ?邪魔するのは悪いじゃないの」
あつこと呼ばれて振り返ると、あの男が立っていた。
「遅いからどうしたかと思って探しに来たんだけど」
「よくわかったわね」と私がいうと、私の長い髪をひと房とって、「こんな髪の長い女はあつこしかいないからさ」とウィンクされた。
男がマルタンをみると、「ボンソワール」とマルタンは挨拶した。
「彼は、マルタンというのよ。さっき、テラスでたばこ吸ってたときに会ったの」
「ボンソワール、マルタン。俺はパスカルだ。よろしくな」
男の名前はパスカルというのか。聞いた気もしない名前では、覚えているわけがないと納得した。マルタンはパスカルに何をしているのかと質問されている。少し離れたところのバーカウンターの人がはけて、私はそこへ移動した。カウンターには飲み物を持った背の高い男が女たちと話している。私は飲み物を頼むふりをして女のすぐ横に立つと、女が嫌そうな顔をして私を見た。
「ボンソワール、マドモワゼル。ごめんなさいね、ちょっとここにかくまって欲しいの。変な男につけられてるから」
男が私を見ながら女にどうしたのかと聞いている。
つづく