階段を上りながら、トイレに寄るのを絶対に忘れないようにしなくてはと考えた。ビールを飲んでいるとすぐに行きたくなるのが手洗いだった。街中なら公衆便所もまだたくさんあるけれど、市内でも必ずトイレの場所を見つけられるようにしておかないと、身体が冷える時期はとても困る。東京の地下鉄にはほぼすべての駅で公衆トイレが設置されているし、百貨店でも買い物することなくトイレを借りられる。便利な国を離れたと実感するのが、手を洗いに行きたくなるときだった。
トイレから出てくると、出口から入ってくる光はずいぶんと明るくなっていた。そろそろ街灯の明かりも消える頃だろう。岸へ渡るため細い橋を渡ろうとすると、少し離れたところに何人かの男たちがいて、ディディエがアンドレを捕まえてジュリアンがげらげらと笑っているのが見えた。男はいくつになっても子供みたいなところがあるとは聞いていた。結婚をしているというディディエらしいが、背の高いアンドレとはしゃいでいる姿は、二匹の子犬がじゃれているように見えた。ディディエは私の姿に気づくと、やはりにこにこと笑って声をかけてきた。
「やっと出てきたね、待ってたんだ」
「トイレに寄ってたから。まだいたのね」
「コーヒーを飲もうと約束したじゃないか」
「あら、そうだったからしら」
ディディエは「うん、したよ、したよ。一緒に飲もうねっていったよ」と譲らなかった。
「悪いけれど、もう帰るわ。疲れちゃったから。それに寒いし」
「じゃあ、送ってあげるよ。車で来ているんだ。そしてカフェがあったら、コーヒーを飲もうよ」
「そんなにコーヒーが好きなの?」
私が尋ねるとディディエは、今度は眉間にしわをよせて「コーヒーを飲もうよ、一緒に飲もうよ、コーヒー」と主張した。ジュリアンとアンドレが「ディディエ、やめなよ」とでもいうかと思ったが、何もいわず、ただ私たちを見ていた。この男たちは本当に友達同士なのだろうか、よくわからない。ディディエは変わらずに「コーヒーを飲もう。たぶんどっかにあるからさ、一緒に飲もうよ、コーヒー」と顔をしかめて騒いでいた。セーヌ川のほとりで明け方など過ごすものじゃない。風が強く、底冷えがする。
「わかったわ。カフェを探しましょ」
ディディエの顔はみるみるうちに明るくなり、「こっちに車をとめたんだ。おいでよ」と私を案内し始めた。「じゃね、ジュリアン、アンドレ。後で電話するよ」とディディエはいったのかもしれない。私は、彼らには挨拶もせず歩き始めた。2度と会わないなら別にいいと思った。
つづく