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wii / La farine

どうにもならないのに

 私の少し前をディディエは歩いて行く。辺りが明るくなって、初めて、ずいぶんと殺風景な場所を地下鉄駅から降りて一人歩いてきていたのだと思った。自分の身に何も起こらなかったのは、もしかしたら恵まれていたのかもしれない。すぐに車にたどり着き、「鍵、開いてるよ」というディディエの言葉で、扉を開けて中に入り込んだ。パリ市に住んでいても、川風を受けるところには住んだことがない。海から十分に遠い場所にパリ市はあるのに、川の近くはずいぶんと風が強い。この時期いつもそうなのか、それとも今日だけなのか、わからない。車内に入るとその強く寒い風から身を守れ、安堵した。「今朝は寒いね」といいながらディディエは車のエンジンを掛ける。上着から何かを取り出して、フロントガラスに備え付けられてあるホルダーにいれた。

「それ、何?」

 ディディエは少し驚いたように私を見て、「携帯電話だよ。使ったことないの?」と聞いた。パリでは東京でも自家用車には乗らないから、フロントガラスに携帯電話を入れるというのが、私には面白く見えた。おかしな発音が聞こえた後、「君の名前はなんていうんだっけ?」と尋ねられた。よしこといいながら綴りを教えると、「よしこか」といいながら、何回か繰り返し、「ところで君の家はどこなのか」と改めて聞かれた。

「ヴァノーよ、7区の」

 ディディエはホルダーに収まっている携帯電話の画面を指で操作しながら、「本当だったのか」といった。私が少し憤慨すると、ディディエは、「パリ市内に住んでいるといいながら、送って行く先はパリ郊外だったりするからさ」といいながら、笑った。

「ヴァノーって地下鉄はどこの駅?」

 ヴァノーの通りは、ヴァノー駅すぐ近くから始まっているのを知らないディディエはパリ市には住んでいないのかもしれないと、私は思った。

「10番線にヴァノーという駅があるの。ボンマルシェのあるセーブルバビロンの次の駅よ」

 ディディエは、「あ、わかった。それじゃ、行くか!(C'est parti!)」といいながら、勢いよくハンドルブレーキをおろした。



 朝日に当たるパリの街並みはとても美しい。建物の外観がきれいに装飾されているので、柔らかい日差しの中には日中よりも趣のある陰影が生まれ、車窓から眺める景色は飽きることはない。窓の外ばかりを眺める私に、ディディエはいろいろな質問をしてくる。フランス語を聞くのは初めてではないのに、ディディエの質問はあまりよくわからず、そのたびにどういう意味なのかを質問し返さないとならなかった。すべてにちゃんと答えてくれるけれど、「君は、フランス人と会話したことないのか?」とディディエから聞かれる有様だった。「大学じゃ高尚なフランス語しか聞かないのでわからない」と答えると、ディディエは大笑いして、「君は素敵だね」と褒めてくれた。


  つづく