阪神淡路大震災から今日で22年…
記録の為に忘れない為に初めて震災体験を綴りたいと思います
震災の前年の4月末に今のマンションを購入し神戸市中央区から西区へ引っ越して少し慣れてお友達も出来始めた頃の地震でした
高台の13階建ての10階でしたのであの日の揺れは活断層はなかったけれど、高層は揺れ戻しがひどくてマンションが折れるかと思った位すごかった
揺れた瞬間、建物が揺れる音と「パカッ‼︎」と食器棚の扉が開いて食器がガシャガシャと落ちていく音が聞こえてきて私は悲鳴をあげていた(と思ってただけのようでした)
揺れた瞬間に主人は私と1歳半だった息子の上に覆い被さってくれ、寝室は倒れるものはなかったので怪我もなく無事でした
すぐ電気は復活しましたがキッチン、リビングはぐちゃぐちゃで食器は全部落ちて食器棚は空っぽでした
この時点でまだ暗く6時位、状況つかめずしばらくお布団でじっとして(あれだけ揺れたのに息子、途中で目が覚めた)ラジオを付けて気になる主人と私の実家へ電話しました
主人の実家は中央区、私の実家は東灘区、どちらも無事でしたがあの時以降電話は繋がらない状態が続きました
私の実家がある東灘区は被害がすごくて母が玄関の扉を開けてまず見えた風景は土埃だったそうです
母と妹は揺れが収まってすぐ知り合いの年配夫婦の安否が心配で様子を見に行ったそうです
その方の家は43号線より南側で普段なら歩いて15分位で着きます
その道すがらがすごい惨状で潰れた家や傾いた家ばかりで道に倒れこんだ家もたくさんあって廻り道しながら進んだそうです
ある程度行った所で行き止まり、なんでこんな所に壁があるの?と思ったら倒壊した高速の道路だったそうで倒れた高速道路に下敷きになったトラックや車からクラクションがピーピー鳴ってたり壊れた家を見て母も妹もそこに人がいるはずなのに大丈夫かな?と考える感覚がなく淡々と道を歩いてたと言ってました
あちらこちらで火の手も上がり外は土埃と煙がすごかったらしいです
老夫婦の無事を確認して家へ戻り部屋の片付けをしてると夜、ガス爆発があるかも知れないと避難指示が出て両親と妹は近所の小学校へ
小学校はすでに家が倒れたり火事で燃えて逃げた方達で教室はいっぱい、家があった負い目から教室には入れず運動場に炬燵敷を敷いて3人ですわったんだそうです
あの時も今位寒波で雪がぱらつく中震えながら運動場で一晩過ごした中で母が見た風景は、着の身着のまま家族を探して名を呼ぶ人、倒れた家から助け出され毛布に包まれて辿り着いた人、運動場の片隅では棺桶を組み立てる音が一晩中聞こえていたそうです
避難指示は翌日には解除されましたが余震も続いて無事だったけど家で寝るのが怖くて夜は父のタクシーで数日寝たそうです(タイヤが余震の振動を和らげてくれたらしいです)
西区の私達は電気はすぐ復活しましたが水は止まり貯水タンクの水を貯めようとお風呂に水を入れましたが半分で出なくなりました
ガスは震災の日はついて追い焚きでお風呂には入れました(お湯は少なかったけど)が翌日から止まりました
震災の1週間前に高熱が出た私が息子の面倒がみれなくて私の実家へ預けていて震災の前日に迎えに行った翌朝の激震でした
1週間震災が早かったら息子と離れ離れでどうなっていたか、運が良かったと思います
私は実家へ帰って手助けする事も物資を持っていく事も出来ずテレビで焼け野原の長田の様子や実家の周辺の様子を映像で見て泣く事しか出来ませんでした
私が実家へ帰ったのは震災から1ヶ月後でした
水とガスは止まりましたが主人が当時いた会社の営業所が北区で被害なく洗濯は会社の洗濯機で水タンクは同僚の親御さんが三田で探してくれてポリタンクを買ってきてくれて会社で汲んで持ち帰ってくれ電気ポットでお湯を沸かして未使用のゴミ箱にお湯を溜めて息子を入浴させたり私達はゴルフ場の無料風呂や会社の同僚のお宅にお風呂を借りに伺ったり早目に復旧した我が家へ主人や弟夫婦にお風呂を提供したりいろんなありがたみや温かさを感じた日々でした
家族は皆無事でしたが私にとって妹の様な存在の姉弟が亡くなりました
次はこの姉弟の事を綴らせてください